第一章 編み始めは輪の作り目(12)

 風呂を借りて、しかし、眠る気にもなれず、遥はダイニングテーブルで編み物を再開していた。遥に続いて風呂に入っていた史郎が戻って来て、驚いた声を上げる。

「まだやってたの? 寝ないの?」

「うん。もうちょっとやってていい?」

「好きにすれば」

 史郎は濡れた頭にタオルを被ったまま、「柘植さん、牛乳飲める?」と聞いて、オープンタイプのキッチンの中に入る。

「うん。飲める」

「ココアとカフェオレだったら、どっち?」

「ココア。作ってくれるの?」

「ついでだけどね」

「ありがとう」

 冷蔵庫を開けたり閉めたりして電子レンジをセットしてから、LDKを出て行った史郎は戻って来たときパーカーを持っていた。それを遥に渡す。

「俺ので悪いけど」

「ううん。ありがとう」

 素直に受け取って羽織る。寒いと感じてはいなかったけれど、パーカーを着たら暖かくてほっとした。

 遥の前にココアのマグカップを置いて、史郎は向かいに座る。彼のマグカップはカフェオレのようだった。

「ありがとう」

 さっきからお礼を言ってばかりだ。遥はくすくすと小声で笑う。

「至れり尽くせりだね」

「本当にね。大サービスだよ」

「今度何かおごるから」

「甘いもので、よろしく」

「甘いもの? ふふ、了解」

 マグカップを両手で包むと温かい。甘い湯気が鼻をくすぐる。一口含むと、その温かさと甘さがすうっと身体の中心から染みわたり、思わずため息が零れた。

 ココアで溶けだした気持ちが、ふいに口をつく。

「ずっと、お母さんと私の間にはお姉ちゃんがいたんだ」

 ため息でマグカップの水面に波紋ができる。史郎は何も言わない。遥は視線を落としたまま、続けた。

「私が生まれたときからずっとね。三人だったの。……あ、もちろんお父さんはいるけれど。女三人とお父さん、みたいな感じ。わかる?」

 少し視線を上げて聞くと、史郎は「なんとなくね」とうなずいた。

「だからさ、お母さんと私で話をしてると、あーもうお姉ちゃんはいないんだって実感しちゃうんだよね。私も、たぶんお母さんも。……仲悪いわけでも、話をしないわけでもなくて、なんかね、うまくいかないの」

「お互いにそう思ってるんだったら、それを共有したら?」

「共有?」

 遥は顔を上げて史郎を見た。逆に史郎は手元のマグカップを見て言う。

「お姉さんのいない新しい関係を築くしかないんじゃない?」

「お姉ちゃんだったらこう言ったかもって話して、もういないんだ、寂しいね、って?」

「まあ、そんな感じ」

「そっか……」

 アドバイスはしないって言ったのに、と思ったけれど、遥は口にはしなかった。せっかくもらったものを撤回されてしまったら嫌だ。

 ココアと一緒に噛みしめる。わずかに沈黙が流れた。それを居心地がいいと思ったのは遥だけだったようで、史郎は椅子の上で身じろぎすると、話題を探すようにテーブルの上に視線を回した。

 史郎の視線に気づいた遥は、編みかけのモチーフを取り上げ、開いていたレシピ本を史郎に見せる。

「これ、わかんなくて教えてくれない?」

「どれ?」

 聞き返す史郎がほっとしたように見えて、遥は苦笑した。

「外側の細編みまで編んだんだけど、その周りの出っ張ってる鎖編みはどうするの? 一回糸切るの?」

「これはピコット編み」

「ピコット? 急にかわいい名前だね」

 鎖編み三つと引き抜き編み一つが、歪な四角形のように並んでいる。

 史郎はレシピ本を取り上げ、ぱらぱらめくると編み目記号の一覧ページを開いて見せた。

「書いてあるだろ。読んでないの?」

「うー、えーっと、その場その場で必要なのだけ見てた。一つ一つは鎖編みと引き抜き編みだから、まとめてピコット編みだなんて思ってなくて」

 遥が言い訳すると、史郎はまたページを戻して、作っていたモチーフの編み図を示す。

「これ、外側の細編みの途中でピコット編みを入れていくんだよ。この『5』って数字は五段目ってことだから、細編みとピコット編みが五段目」

「え、そうなの? じゃあ、これどうするの? 失敗ってこと?」

 ピコット編みを抜かして細編みだけで編んでしまった。史郎の言う五段目が最後で、もう出来上がる寸前だったのだ。ピコット編みがないままでも、いちおう形にはなっているけれど、どうせならレシピ通りに作りたかった。

 遥ががっかりしていると、史郎は「貸して」と、最初に教わったときと同じように遥の編地を手に取る。刺さったままのかぎ針を抜いてしまうと、毛糸玉に繋がる糸を引いた。

「え! ちょっと!」

 編地がするするとほどけていく。

「五段目だけ編み直せばいいよ」

「そんなのできるの?」

「編み物は失敗してもやり直せるから、大丈夫」

 五段目をほどいてかぎ針を刺すと、史郎は遥に編地を返した。

「失敗してもやり直せる、か……」

 人間関係もそうかな。

 五段目の最初の一目を編む。一度ほどいた毛糸は少し波打っていて、柔らかい。

 ふっと息を漏らすと、史郎がものすごく嫌そうな顔をした。

「泣くのだけはやめて。なぐさめるの無理だから。柘植さんがどうしても泣きたいなら、俺は自分の部屋に行くから一人で泣いて」

「和田君、ひどい」

 史郎の言い方がおかしくて、遥は声に出して笑った。

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