第一章 編み始めは輪の作り目(9)
家に帰れないまま、遥はイチカフェにいた。もうすぐ二十一時だ。閉店になってしまう。
帰りたくなかったけれど、里絵奈はもう実家に向けて出発してしまっているし、他に泊めてもらえるほど親しくなった友だちはいなかった。高校時代の友だちにも連絡してみたけれど、皆それぞれ用事があり断られた。
あと一人だけまだ聞いていない友人がいるけれど……。
ネットカフェか漫画喫茶かどこかで一晩すごすかと考えたとき、向かいの椅子が引かれた。
「どうしたんですか?」
「隼人先輩」
いつかと同じ白衣を羽織った隼人が座っていた。飲み物の紙コップを手にしている。
「帰らないんですか?」
「えっと、ちょっと親と……喧嘩してしまって」
「家出?」
隼人に微笑まれると、ものすごく子どもっぽいことをしている気分になる。遥は「すみません」となぜか謝ってしまう。
「逸見さんは?」
「今夜から帰省してるんです」
「他の友だち」
「連絡した子は皆断られちゃいました」
「ってことは、まだ連絡してない子がいるんですか」
「ええ、まあ」
「連絡してみたらどうです?」
遥が手に持っていたスマホを隼人は指差す。
「今、ですか?」
「はい。今。じゃないと、もう閉店しちゃいますよ?」
隼人は穏やかな笑顔なのに、なんとなく逆らえない雰囲気を感じて、遥はスマホを操作した。こんなきっかけでもなければ連絡できなかったと思う。多少やけっぱちな気分で、電話をかけた相手は史郎だった。昨日、やっと連絡先を交換したのだ。
『もしもし』
「和田君? 柘植だけど……あの今いい?」
『ああ、うん。何?』
史郎の淡々とした口調に促され、遥は思い切って聞いてみる。
「今日、泊めてくれない? ちょっと家に帰りたくなくて」
『はあ? なんで俺が? 他に友だちいないの?』
「皆だめだったの。お店の椅子貸してくれたらそこで一晩すごすから。ね?」
あかさらまに迷惑げな史郎の声に、遥は、これはやっぱりネットカフェだなと思ったときだった。隼人がテーブル越しに身を乗り出して、遥のスマホの近くで、名前を呼んだ。
「遥」
「え?」
「彼が無理だったら俺の部屋に泊まればいい」
「えっ? え?」
今まで名字でしか呼ばれたことがないのに、口調もどこか違うし、耳元で低音で話されるしで、遥はびくりとして椅子を鳴らして身体を引いた。そのせいにしてはおかしなタイミングで、一拍置いて、隼人の紙コップが倒れる。
「きゃっ。あ、どうしよう。すみません」
『柘植さん、どうしたの? 近くに誰かいるの?』
「うん、サークルの先輩」
史郎に返事をしながら、隼人を見ると「こっちは大丈夫ですよ」と手を振ってくれた。いつもの口調だ。蓋の飲み口から少しテーブルにこぼれただけで、被害はなかったようだ。
『どうしたの? 何かまずいこと?』
「ううん。大丈夫。ちょっと飲み物こぼしそうになっちゃっただけ」
『そう。ならいいけど。……先輩ってもしかして前に話してくれた人?』
「うん」
そこで史郎はため息をついた。
『ちょっと待ってて』
史郎を待つ間に隼人を見ると、彼は楽しげに口の端を上げた。
「冗談ですよ。電話の相手が男みたいだったので、ちょっと手助けを。人に取られそうになったら惜しくなるって言うじゃないですか」
「彼は実家に住んでるんです。お母さんとも顔見知りで、だから、そういうんじゃないですよ」
「怒らないでください。すみません」
それほど強い口調で言ったつもりはなかったけれど、隼人は謝った。どういうわけか、遥の少し横に向かって頭を下げたようにも見えた。
隼人に何か言う前に、電話の向こうから史郎の声が聞こえた。
『母さんに聞いたら、ぜひ泊まって、だって』
「ホント? いいの? わ、ありがとう!」
『今、どこにいるの?』
遥の感激の言葉をさらっと無視して、史郎は聞く。
「大学。イチカフェ。今から行っていい?」
『そうして。時間みて、三川野駅まで迎えに行くから』
「え、大丈夫だよ。そんなの悪いし」
『いいよ、別に。ついでがあるから』
史郎は遥の返事を待たずに、『こないだの出口の前で』と言って電話を切ってしまう。
「うまくいったみたいですね」
「はい。……ありがとうございます」
釈然としないながらも、隼人に礼を言う。
先ほどの史郎との会話で、隼人に会ったら聞こうと考えていたのを思い出し、遥は南のことを口にした。
「隼人先輩、一年のときにサークルに、柘植南っていたの覚えてますか?」
隼人は瞬きをして、遥の横に視線を逸らせて、首を傾げた。それは、全く記憶にないというよりは、なんて返事をするか迷っているような表情だった。遥は返事を待たずに続ける。
「柘植南って私の姉なんです。この間のクリアファイル、姉のものでした。……それでもしかしてって思ったんですけど、先輩、姉と親しかったんですか?」
一気に言い切ってしまうと、遥は胸のつかえがとれた気がした。
隼人は遥に向き直る。
「柘植さんが――遥さんが南さんの妹さんだってことは、すぐわかりましたよ。よく似ていますね。一瞬、南さんが生き返ったのかと思ってしまったくらい」
隼人は軽く目を伏せた。遥は「すみません」と謝る。知らないうちに隼人のことも傷つけていたのか。
「親しかったと言えば親しかったですかね」
「付き合ってたんですか?」
「僕はそう思ってましたよ」
「僕はって、じゃあ姉は……?」
「さあ、どうでしょう。僕には南さんの気持ちがわからない」
隼人はちらりと横を見た。先ほどから何かあるのかと遥は振り返る。
「時間、大丈夫ですか?」
背後の柱に時計がかかっていた。隼人に聞かれ、遥は慌てて荷物をまとめる。あまり出るのが遅くなると史郎を待たせてしまう。
「すみません。今日はもう行きます。また姉の話、聞かせてください」
挨拶をして、その場を離れる。カフェを出るときに振り返ると、隼人はまだ柱の時計の方を見ていた。
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