第一章 編み始めは輪の作り目(8)

 翌日の木曜日。

 明日は昭和の日で連休初日だ。なんとなく浮足立って、四限目が休講になったのをいいことに、大学の外のカフェまで足を延ばした帰りだった。

「あれ? お母さん?」

 大通りの反対側を歩いていくのが母親の美穂みほだと気づいて、遥は声を上げた。隣を歩く里絵奈が「どうかした?」と聞く。

「遥のお母さん?」

「だと思ったんだけど……、何してるんだろう。こっちに出かけるなんて言ってなかったのに」

 首を傾げる遥に、里絵奈は、

「私、実家帰る準備あるから、ここで」

「うん。じゃあ、また五日にー。気を付けてね」

 今年のゴールデンウィークは、月曜日の五月二日と金曜日の五月六日を休みにできたら十連休だ。六日は授業があるものの、五月二日の授業は全部休講になっていて、里絵奈は帰省するそうだ。都歩研の活動日が五日に決まったため、四日にはこちらに戻るらしい。

 その場で里絵奈と別れて、遥は母が歩いていった方を見る。まだその背中が確認できた。何をしに来たのか気になったし、帰るところなら一緒に帰ってもいい。遥はそう思って、母のあとを追いかけることにした。


 小走りに追いかけたけれど、遥が追いつく前に美穂は大通りを曲がってしまった。そして、遥が同じ角を曲がったときには美穂の姿は見当たらなかった。

 どこに行ったんだろう。携帯に電話してみるか、と考える。

 それにしても、美穂がなぜ新山にいるのかがわからない。自分が聞いていないのだから遥に関することではないだろう。それ以外で、母と新山を繋ぐものといえば――姉の南だ。

「この辺、お姉ちゃんが住んでたところ……?」

 事故に遭ったのは新山ではない。考えられるのは、南が借りていたマンションだ。

 遥は一度も行ったことがない。でも、マンションの名前は知っていた。ルミエール南。名前が同じだったのが決め手だと姉が話していたからだ。

 スマホで地図を検索してみる。やっぱりこの近くだ。

 地図の通りに歩くと、美穂を見つけた。遥は今度は距離を保って、あとをつける。


 昨日、帰宅したとき、無造作にリビングに放り出した鞄から、史郎からもらった紙袋が落ちてしまった。それを拾って中身を見た美穂が、遥に聞いたのだ。

「遥! これ、どうしたの? 南の部屋に入ったの?」

「え? 入ってないけど。それは、友だちにもらったの」

 美穂の剣幕に、遥はとっさに入っていないと嘘をついた。

「そう……そうよね」

 あっさりと引き下がった美穂に、なんとなく違和感を持って、遥は聞いてみることにした。

「お母さん、お姉ちゃんが編み物してたの知ってるの?」

「もちろんよ。部屋にいっぱいあるじゃないの」

「それって、お姉ちゃんが一人暮らししていた部屋のこと?」

 自宅の南の部屋には編み物に関するものは一つもなかったのを、先日確認したばかりだ。

「え、ええ」

「その部屋にあったものって今はどこにあるの?」

「どこって……南の部屋よ」

「でも……」

 肝心の編み物が見当たらないのだ。しかし、それを言ってしまうと、南の部屋に入っていないという嘘がばれてしまう。言葉を探している間に、美穂は「自分の鞄はちゃんと片づけておきなさいね」と言ってキッチンに行ってしまった。


 もしかして、姉の部屋はまだ借りたままになっているのではないだろうか。

 エントランスの屋根に「ルミエール南」と名前のある建物に美穂が入っていくのを見て、遥は確信した。

 時間を置いて、中に入る。部屋番号も覚えている。その五〇二の郵便受けを見たけれど、表札は出ていない。美穂を五階に下ろしてきたばかりと思われるエレベーターに乗り込んだ。

 部屋の前まで来て、少し迷った末に、遥はインターフォンのボタンを押した。遥の顔を見て母が出てこない可能性も考えたけれど、スピーカーから応答がある前に、がちゃがちゃと大きな音を立ててドアが開いた。

「南っ!」

 ドアを開けるのと同時に、美穂は遥をそう呼んだ。

 遥は、呆然と立ち尽くす。

 姉に間違われることはないわけじゃない。似たような顔なのに、わざわざ似たような服装をしているのだから当たり前だ。両親に呼び間違われるのも、姉が生きていたころからだから、何とも思わない。

 けれども、これは違う。

 遥を南と呼んだあと、美穂は目の前にいるのが遥だと気づいたようだった。目が見開かれる。

「遥……どうしてここに……?」

 気まずそうに揺れる母の視線に、泣きそうな気配がある。遥が美穂に期待させて裏切った。南の不在を改めて突きつけたのだと思った。

 そして、遥は遥で、母が今でも姉を想っているのだと突きつけられた。

「お姉ちゃんはもういないよ」

「わ、わかってるわよ」

「私はお姉ちゃんじゃない」

「ええ、もちろんわかってるわ。さっきはごめんなさい。ちょっと動転してしまって」

「私はお姉ちゃんみたいになれないの。どうがんばっても、なれない……」

 遥はつぶやくようにそう言って、くるりと身を翻した。

 五階で止まったままになっていたエレベーターは、ボタンを押したらすぐに開き、美穂が追いかける隙を与えなかった。

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