第一章 編み始めは輪の作り目(7)
翌週の水曜三限「西洋音楽史概論」。大講義室の階段状の聴講席を下から見上げ、真ん中あたりに史郎を発見すると、遥は彼の隣に座った。
「和田君、一週間ぶり」
「ああ、うん」
「座っちゃったけど、隣、いい? 一人なの?」
「ああ」
「ああ、しか言えないの?」
「あ、あ……」
おかしくなって聞いた遥に、史郎は同じ調子で返事をしかけて止まった。遥はくすくす笑う。史郎は憮然とした顔でメガネを直した。
「お姉ちゃんのモチーフ、編めた?」
「いちおうね」
史郎は、遥との間に置いたままになっていた紺色のデイパックを開けると、中から小さな紙袋を出して、遥の前に置く。遥は史郎に断ってから、紙袋を開く。南なら選びそうだと思ったパステルピンクの毛糸で編まれたモチーフが出てきた。
「何の毛糸だか書いてないから、とりあえず並太毛糸で編んでみた。よく考えたらレースって可能性もあったんだけど、違和感なさそうだからこれでいいみたいだな。全部同じ色で編んだんだけど、本当はどこかで色を変えると思うんだ。でも指定がないからさ」
史郎は言い訳するように、ぼそぼそと説明する。
「すごい、綺麗!」
編み目がきっちり揃っていて、毛糸の一本一本に意識が向かないほど、模様の一部になっている。あの記号がこんなに綺麗な模様になるとは、最初にレポート用紙を見たときには思ってもみなかった。念のため持ってきた南の編み図を出して、どれがどれか史郎に聞きながら見比べる。彼は一つ一つ、これとこれを組み合わせるのがおもしろい、ここで色を変えるのかもしれない、などと丁寧に解説してくれた。
「和田君、すごいねー。ちゃんと丸いし、四角いし。ホントに花みたい」
あのあと遥も本を買って、自分で編んでみたのだ。けれど、目の高さがまちまちになってしまったり、緩く浮いてしまっている糸があったりしていた。史郎に見てもらおうと思って持ってきたものを鞄から取り出す。丸く四段編んだシンプルなモチーフだった。
「私も作ったんだけどね。……なんか、ゆるゆる?」
遥の作った編地を手渡された史郎は、「アイロンかけた?」と聞いた。
「アイロン? かけてないけど」
「編み上がったらアイロンのスチームをかけて、形を整えるんだよ」
「そうなんだー」
「本に書いてなかった?」
「とにかく一度作ってみたくて、全部読んでなかったかも」
「あと、これさ、二段目以降。目拾うところ、たぶん間違ってるよ」
史郎は机の上に遥が編んだモチーフを置いて、糸を指差す。遥は「やっぱり?」と苦笑する。
「ここ、どの糸なのか全然わかんなくて、適当にやっちゃった。後で教えて」
そう頼むと、史郎はうなずいて、編み目の浮いている箇所を指で撫でる。
「同じ力加減で編んでいけば、目は揃うんだよ」
こんなに繊細なものを作るのに、関節がごつごつした、きちんと男の人の指だった。なんだか恥ずかしくなって、遥は自分の編地をひったくるようにして鞄に戻した。
「でも、柘植さんが作ってくるとは思わなかった」
「えー、そんなに不器用だって思ってたの?」
「違う。そうじゃなくて、……編み物のことなんてすぐ忘れるんじゃないかって思ってた」
言いにくそうに視線を逸らして、史郎はそう言った。
「まさか! 忘れないよ。お姉ちゃんの遺品だもん」
無意識に使った「遺品」という単語に、自分でどきりとする。
「あ、悪い……」
髪をかき混ぜるようにして頭を掻いた史郎に、遥は少し強めに言う。
「気使わないでいいから。逆に困る」
史郎が何か言いかけたとき、教諭が教室に入ってきて授業が始まってしまった。前に向き直る寸前、「ごめん」と小声が聞こえて、遥は慌ててルーズリーフを一枚外す。
『姉のことは全然平気ってわけじゃないんだけど、変に気使われると、話しにくくて困るから。普通にしてて』
そう書いて、史郎の前に滑らせた。
今日の作曲家はバッハだ。「音楽の父」という説明を聞きながら、史郎がルーズリーフに何か書いているのを待つ。戻ってきた紙には、罫線に収まる几帳面な文字が並んでいた。
『わかった。俺、空気読んだりできない。察しろって言われても無理。また気に食わないことがあったら言って』
片言みたいな文に、遥は口元を緩ませる。
『私にも、何かあったら言ってね』
そう書いてから、下に続けて姉のことを書いた。
五年前に交通事故で亡くなったこと。姉と同じ大学を選んだこと。サークルも同じにしたら、姉と同期だった先輩から編み図を渡されたこと。先輩はそれを遥の忘れ物だと言っていて、南のことは話題にしない。
『隼人先輩は、姉と特別な関係だったと思う?』
この一週間で、親の目を盗んで――両親、特に母は、南を話題にすると嫌な顔をする――、芳名帳をチェックしたけれど牟礼隼人の名前はなかった。生前のままになっている姉の部屋も見れる範囲で見てみたけれど、大学時代の手紙などは見当たらず、わからなかった。編み物関係の本や道具もついでに探したのだけれど、見つからなかった。姉が一人暮らししていた部屋にあった荷物がどこにしまわれているのか、遥は知らない。
それに対する史郎の返事は簡潔だった。
『先輩に聞いてみたら?』
『正論すぎ』
『想像したってわからない。本当に南さんと柘植さんの関係に気づいていない可能性もある。気づいていて言わないなら、柘植さんに指摘して欲しいのかも。秘密にしておきたいなら、編み図を渡さない』
『なるほどねー』
そうこうしているうちに、曲の時間になった。どこかで聞いたことがある「小フーガ ト短調」は眠くなることもなく、授業は終了した。
遥は荷物を片づけてから、机の真ん中に置いたままになっていた史郎の編んだモチーフを返す。
「これ、ありがとう」
「持って行っていいよ。柘植さんにあげようと思って作ったものだから」
「ホント? いいの?」
「別に大したものじゃないし」
史郎はぞんざいに言って席を立つと、紙袋を両手で抱え持つ遥に通路に出るよう促した。
「わー、うれしい! 私じゃ練習してもこんなに綺麗に作れないよ」
「そんなことないと思うけど」
軽く首を振る史郎は、照れているようにも見えず、本当にそう思っているようだった。どうやったら感動が伝わるだろうかと遥は考えるけれど、「どうでもいいから早く下りて」と催促され諦めて、聴講席の通路を下りる。
教室の外に出てから、思い出して史郎を振り返った。
「そういえば、お姉ちゃんが好きそうな色、なんでわかったの?」
「いや、知らないけど?」
「このパステルピンク」
「ああ、それ。先週、柘植さんがそんな色の服着てたから」
史郎は「今日も淡い色だし」と遥を見た。先週は、確かに桜色のカーディガンを着ていた。今日は白地のストライプのブラウスにベージュのスカート。遥は驚きをそのまま口にする。
「えっ! 意外! 女子の服に興味あるんだー」
遥の服の色を覚えていたのにも驚いたけれど、それを気にして毛糸の色を選んでくれたことにも驚いた。
「変な言い方やめてよ」
史郎は顔をしかめてから、ふと気づいたように首を傾げると、
「もしかして、服装もお姉さんの真似してんの?」
「真似って……」
はっきり言われると悪いところを指摘されたようで、遥は口ごもる。
「真似だったら、何なの?」
「別に聞いてみただけ。……まあ、見た目は似合ってるからいいんじゃない?」
「え、そ、そう?」
さらりと史郎が言うから、逆に遥はまごまごしてしまった。しかし、史郎は遥の様子に構わず、
「どうする? 道具持ってるならカフェか学食行く?」
褒められたわけじゃないのか、と思うと、ちょっとだけ残念になる遥だった。
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