第一章 編み始めは輪の作り目(5)
左の人差し指に毛糸を二周巻く。その輪を崩さないように親指と中指で持って、毛糸玉に繋がる糸を伸ばした人差し指にひっかけて、右手で持ったかぎ針を輪の中から入れて、糸をひっかけて引き出す。史郎に言われた通りに繰り返す。
「うー、指つりそう」
「力入れなくても大丈夫だから。そしたら、輪の中にかぎ針を入れて、糸を引き出して、その状態でまた糸をひっかけて引き抜く……」
「輪に入れて……引き出して……ひっかけて……引き抜く……? 引き抜くって?」
「この今かぎ針にかかってる二本を針から抜く感じ」
テーブルの向かいに座った史郎が、自分用のかぎ針で遥の手元を指す。
「引き抜く……っと。こう?」
「そう。それが細編み。それをあと五回繰り返して」
「えっとー、輪の中に針を入れて……糸をひっかけて、引き抜く?」
「違う。輪の中に針を入れて、一回糸を引き出して。そしたら、糸をひっかけて引き抜く」
遥が混乱していると、史郎は動作ごと声に出して指示してくれた。言われた通りに繰り返していくと、輪が徐々に埋まっていく。最初はふにゃふにゃしていて扱いにくかったのに、段々持ちやすくなる。小さい編み目ができて、編み物をしている実感が湧いてくる。
「五回編んだら、かぎ針はそのままで、最初の輪を引き締めて」
「これ、引っ張ればいいの?」
「あ」
「え? 何なの? あ、糸がはみ出してる」
糸の端を引っ張ったら、輪は小さくなったけれど、二周巻いたうちの片方がそのままはみ出してしまっていた。
「順番に引き締めないと」
「そんなこと言わなかったよね」
「言おうとしたら柘植さんがさ」
「先に言ってよー。これ、直らないの? やり直し?」
史郎に泣きつくと、彼は「貸して」とかぎ針ごと取り上げた。
「直るよ。まあ、このくらいならやり直しても大したことないと思うけど」
遥のかぎ針はそのままにして抜けないように支えて、自分用のかぎ針を使って輪を少し広げると、締まっていた方の糸を引いてはみ出していた糸を引き締めた。手際の良さに「おー」と歓声を上げる遥に戻してくれる。
「ありがとう」
「それで、端を引っ張ればいいから」
「おおーっ。丸くなった!」
先ほど間違えた糸端をもう一度引くと、今度ははみ出すこともなく綺麗に輪が窄まった。
盛り上がる遥とは違って、史郎は淡々と先に進める。テーブルに広げていたレシピ本の図を指した。
「最後に、この絵の通りにかぎ針を入れて、糸を引き抜いて」
「え、これ、どの糸のことなの?」
最初の編み目の糸にかぎ針を入れて、糸をひっかけて引き抜くと、ぐるっと円になった最初と最後が繋がるようだった。しかし、レシピ本の図で示された糸が、手元の編地のどの糸なのか全くわからない。図では他と違う色がつけられて区別できるけれど、実際はそんなわけもなく、どれも同じに見える。両手で持ったまま史郎に見えるように差し出すと、彼はかぎ針で指して教えてくれた。
「ここから引き抜いて……、できた!」
直径二センチ弱の小さな円が編めた。黄色がたんぽぽみたいだ。
かぎ針が抜けないようにそっとテーブルに置く。ほっと息をついて、強張っていた両手を振って、力を抜いた。
「それが、一段目」
史郎は、今まで見ていた『作り目の編み方』のページをめくって、次の丸いコースターの作り方の編み図を見せる。
「このあとに、二段目三段目って編んでいくわけ」
「順に外側に行くんだ?」
「そういうこと」
うなずいてから、先ほどのページに戻って、作り目の編み図を指す。
「この楕円が鎖編み、プラスが細編み。細編みは図によってはバツ印だったりするけど」
「えー何それ」
「どっちでもわかるから大丈夫」
そう言って、史郎は本のページをめくる。
「たいていの本はこんな風に、記号と編み方の説明が載ってるから」
「うわ、こんなに種類があるの?」
一ページに三種類くらいの編み方が掲載されたのが十ページほど続いている。
「別に暗記する必要はないよ」
「そっか。そうだよね」
「大きな書店に行けば、初心者向けの本もあると思うから探してみたら?」
「うん、そうする」
できたものを写真に撮ろうとして、スマホを見たら五時すぎていた。
「やばい、もう帰らなきゃ」
遥が言うと、史郎は驚いたようにこちらを見た。
「もしかして、佐木橋から通ってんの?」
「うん、そう」
「何時間かかるの?」
「急行だったら一時間かからないよ! 榎並駅から乗り換えなしだよ!」
「そんなもんなの? もっと遠いと思ってた」
「ほら、やっぱりー。そういうこと言うでしょ!」
「ああ、悪い」
史郎が気まずそうに頬を掻くから、彼を言いこめられた気がして、遥はくすりと笑った。それから、一段目だけ編めた毛糸の円を指差す。
「これ、どうしたらいい?」
「最初の練習ってことで、ここで切っていい? このレポート用紙のモチーフを作るんだったら、一段目は長編みだから、どうせこれは使えないし」
「うん。よくわかんないから任せる」
遥が言うと、史郎は糸を切って、かぎ針を引き抜いた。
「綴じないから緩むかもしれないけど、まあいいよね」
「全然わかんないけど、まあいいよ」
小さな丸い編地を遥の前に置き、史郎は聞く。
「これで交換条件、成立したってこと?」
「えー、お姉ちゃんのモチーフを編めるまでに決まってるでしょ」
遥は、出しっぱなしになっていた南のレポート用紙をさっと鞄に入れる。
「この調子でやったら、いつまでかかるかわかんないよ。出来上がるまで教えるから、先にコピーさせてくれてもいいと思う。お姉さんがだめだって言ったら、コピー返すからさ」
「うーん、そうだよね……確かに時間かかりそう」
南がだめだと言う可能性はないし――許可も取れないけれど――、これ以上は申し訳なくなってきた。
「そもそも、お姉さんに教わった方がいいんじゃない?」
「それができたら、私だってそうしたいよ」
思わず言ってしまうと、史郎は首を傾げた。
そこで、暖簾の向こうから雅恵が顔を出した。
「遥ちゃん帰るんだったら、史郎、駅まで送って行きなさいね」
「ああ、わかってる」
母親に向かってぶっきらぼうに返事をしてから、史郎は遥に向き直る。
「榎並まで送るから、途中のコンビニでコピーさせて」
「うん。わかった」
遥はうなずいてから、付け足した。
「でも、三川野まででいいよ。謝らなきゃならないこと、あるから」
史郎は怪訝な顔で、遥を見ていた。
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