第一章 編み始めは輪の作り目(4)
新山大学の最寄駅は、地下鉄
遥は、地下鉄
三川野駅の出口から地上に出ると、史郎は特に説明もせずに歩き出す。
出口の前は四車線の幹線道路に面してビルが建つ、あまり生活感のない景色だったけれど、横道に入っていくと、段々人が住んでいる気配のする街に変わっていった。車二台がすれ違える程度のそれほど広くない道路に、すずらんを模した街灯が立つ歩道。高くても五階といった低層のビルが道路の両側に並び、マンションなのかベランダから観葉植物がはみ出していたりする。歩道に面した一階に事務所や店舗が入っているビルが多い。コンビニやチェーン店のドラッグストアもあるし、年季の入ったガラス戸の自転車屋や新聞店、新しい小洒落た飲食店なんかもある。
歩道に駐められている自転車を除けながら、史郎の背中に聞く。前から人が来るから隣に並んで歩けないのだ。
「商店街なの?」
「組合はあるけど、商店街って名前はついてない」
ちらっとこちらを振り向いて、前を指差すと、
「ここをずっと行くと
「ずっとってどのくらい?」
「十五分もないかな」
「へー。東京は駅と駅がすごく近いよね」
先週の都歩研の散歩でも、大学周辺をうろうろしているうちに隣の駅まで行っていてびっくりした。電車に乗っていても駅間隔が狭いのはわかるけれど、歩くと確かに実感できる。
「柘植さんは?」
突然聞かれて、遥は逆に聞き返す。
「え? 何?」
「出身」
「あー、
隣県だ。
「東京生まれ東京育ちの和田君は馬鹿にするかもしれないけどー、超いいところだから! 観光地だから! 連休に遊びに来るといいと思う」
「俺、何も言ってないんだけど」
史郎は一軒の店の前で止まった。歩道に張り出した布製の赤い庇に、白抜きで『ワダ手芸店』と書かれている。自動ドアを挟んでいるショーウィンドウの、右にはトートバッグなどの小物が飾られた棚があり、左にはお揃いのワンピースを着た大人と子どものマネキンが立っている。
「ここが俺んち」
短くそれだけ言って、史郎は中に入ってしまう。自動ドアに反応して電子音のチャイムが鳴る中、彼に続いて店内に入る。
間口より奥行が広い店内は、両側の壁が棚で、布と毛糸の色で溢れていた。入口近くには壁と平行に胸高の棚があり、その奥はテーブルが二つあった。片方は四角い無骨な木の作業台といった趣きで、もう一方は赤いギンガムチェックのクロスがかかった丸いテーブルで椅子が置いてある。
奥のレジカウンターの向こうの暖簾を上げて中年女性が出てきた。ふっくらした体形の彼女は、愛想のいい笑顔で、
「いらっしゃいませ。って、なんだ。史郎じゃない。なんでこっちから帰ってくるの? って、あら」
遥に気づいて、目を瞠った。年齢的に史郎の母だろう。
「こんにちは。お邪魔します」
遥は慌てて頭を下げる。実家が手芸店に置き換えられて、史郎の家族に会う可能性をすっかり失念していた。
「和田君と同じ大学の柘植遥と言います」
「あら、ご丁寧にどうも。私は史郎の母の
雅恵は機嫌よく笑った。
「史郎が女の子連れてくるの久しぶりね」
「久しぶり……。初めてとかじゃないんだ」
意外に思って、遥は史郎を見る。
「母さん、余計なこと言わないでよ」
「ごめんごめん」
雅恵は軽い口調で謝って、遥を見る。
「誤解しないでね。小中学生のころよ。手芸を教えて欲しいって言うクラスの女の子をよく連れてきたから。うち、教室もやってるの」
「あー、なるほどー」
「お店のお客さんじゃない女の子は、遥ちゃんが初めてね」
「あ、いえ、違います。私もお客さんなんです。編み物教えてもらいたくて」
「あら、そうなの?」
「はい。すみません」
雅恵と遥が、「残念だわ」「すみません」と繰り返すと、史郎は嫌そうに顔をしかめて、「もうそのくらいにしてよ」と言う。
「柘植さん、そっちに座ってて。母さん、半端なロットの毛糸あったよね?」
遥は言われた通り、丸いテーブルで待つ。毛糸の棚に向かった雅恵が「何編むの?」と聞くと、入り口の方の棚を物色していた史郎が「かぎ針でコースター」と答える。
「並太でいい?」
「ああ、うん」
二人のやりとりを遥は黙って見ていた。仲いいんだなと思った。会話が自然だ。うちとは全然違う。
「遥ちゃん、好きな色選んでね」
雅恵がテーブルの上に毛糸玉を並べ、一気に目の前が華やかになる。
「わあ、ありがとうございます」
「母さんは奥行ってていいから」
「あら、そうなの? じゃあ、ごゆっくり」
戻ってきた史郎が言うと、雅恵は楽しそうに笑って、レジの奥に入って行った。
「奥に住んでるの?」
「いや、住んでるのは二階。奥は作業場で、ミシンがあって鞄なんかを作ってる」
「え、すごい!」
「小学校のとき、体操服入れとか上履き入れとか、なかった?」
「あーあったあった! お母さんが作ってくれた」
姉のお下がりではないものは珍しくて、とても大事にしていたのを覚えている。
「ああいうの作ってネットで売ると売れるんだよ」
「そっか、皆が皆、家で作れるわけじゃないもんね」
「あとは普通の、大人用の鞄とか」
「ショーウィンドウの? 手づくりなんだ?」
遥は入り口を振り返る。史郎はうなずいた。
「母さんは手芸のレシピ本に作り方を提供したりもする」
「わー、すごいね! 本に載ってるなんて!」
「作り方がね」
念を押すように言ってから、史郎は「そうだった」と思い出したようにつぶやいて、テーブルクロスを持ち上げて中から薄くて大きい冊子を一冊取り出した。カラーの表紙に『かぎ針編み』の文字が見える。史郎をそれをぱらぱらとめくって、テーブルに乗せた。
「これが編み図」
楕円やTのような記号が円を描いて配置されたものは、南のレポート用紙にあるものにそっくりだった。
「ホントだ。同じだ!」
遥は、冊子の隣にレポート用紙を並べる。
「で、これがかぎ針」
史郎は冊子の上に金色の細い棒を乗せる。売り場の棚から持ってきたのだろう、未開封の袋に入っていた。長さはペンより少し短いくらい。両方の先端が鉤状になっていた。
「この形が鉤ねー。これで編むんだ?」
「そう」
それから史郎は、かぎ針の真ん中に刻まれた数字は号数で、毛糸のラベルに書かれたものと同じ号数のかぎ針を使うように、と教えてくれた。
南なら淡いピンクかベージュを選んだかもしれないと思いながら、遥は明るい黄色の毛糸を選んだ。毛糸玉のラベルを剥がして外側から糸を引き出そうとしたら、史郎に止められた。
「ちょっと待って。糸端は内側から」
「内側?」
史郎は、戸惑う遥の手から毛糸玉を取り上げて、手慣れた様子で糸を引き出してから返す。持っていたレシピ本を広げると、厳しい表情で提案した。
「とりあえず、本に載ってる簡単なやつを作ってみよう」
「先生、お願いします!」
「先生はやめて」
顔をしかめる史郎を、遥は窺う。
「……和田君さー、今、面倒だなとか、思ってない?」
「今さら、それ聞く?」
「え、最初から思ってたってこと?」
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