第一章 編み始めは輪の作り目(3)

 男子学生は和田史郎わだしろうと名乗った。同じ一年生、理工学部だそうだ。「メガネが理系っぽい」と言ったら、呆れたような目を向けられた。

 お互いにこのあとは講義がなかったため、外のベンチで話すことにした。さっきまでいた教室のあるD号館の前は、主要な動線から外れていて、あまり人が通らない。まだ小さな若葉をつけたイチョウの枝が作る曖昧な影は、ときどき風に揺れていた。

 南のファイルを渡すと、史郎は一枚一枚興味深そうにじっくり見ていった。

「ねえ、これ何なの?」

 遥が聞くと、史郎はばっと顔を上げ、驚いた顔でこちらを見る。

「え、知らないとおかしいようなもの?」

 不安になって聞くと、史郎は、少し考えるようにして首を振った。

「いや、そんなことないと思う。普通は知らないよな……」

「編み図って言った?」

「ああ、うん。かぎ針編みの」

「かぎ針? 鍵なのに針?」

 遥が、右手を捻って錠を開ける仕草をすると、

「その鍵じゃなくて」

 史郎は人差し指を一本だけ立てて、くいっと関節を曲げた。

「こういう形のこと。先端が鉤状の針……針って言っても、このくらいの棒だけど」

 親指と人差し指で彼が作った幅は十二・三センチくらい。

「ふうん」

「かぎ針でやる編み物がかぎ針編み。編み物はわかる?」

「わかるよ、そのくらい。セーターとかマフラーとか、毛糸で編むんでしょ」

 遥が胸を張ると、史郎はほっとしたようにうなずいた。冗談で聞いたんじゃなかったんだ、と遥はしゅんとする。

「編み図は、編み物の設計図」

「設計図!」

 遥は史郎の膝の上にある編み図を見る。花の形に見えるやつだ。

「これは、花が作れるの?」

「うん、まあそんな感じ。花っていうか、花モチーフ。一個だとコースターとか。繋げたら、もっと大きなものも作れる」

「へー、そうなんだー」

 南が編み物をやっているのを見た記憶はない。大学に入ってからの趣味だろうか。

「これは柘植さんが書いたわけじゃないんだよね?」

「うん。たぶん……姉が書いたんだと思う」

「お姉さんのオリジナル? コピーしてもいいかって聞いてみてくれないかな」

「それは……」

 聞けるならいくらでも聞くけれど、もうできない。姉がもういないのだと、初対面の彼に言うことができず、遥は口ごもる。代わりに史郎に質問をした。

「なんで、コピーが欲しいの?」

「作ってみたいから」

 何でもないことのように史郎が答える。遥は目を見開いた。

「え! 編み物できるの?」

 遥の勢いに押されるように身を引いた史郎は、遥から視線を逸らして、わずかに首を縦に振った。

「私に教えてくれない? 私もこれ作ってみたいんだけど」

「えー……なんで俺が……」

 ものすごく嫌そうな顔をした史郎は、

「それ、交換条件ってこと?」

「えっ? えーっと、……そういうこと、かも?」

 しどろもどろに答えると、史郎は大きくため息をついた。しぶしぶといった表情で、メガネを直す。

「わかった」

「いいの? やったっ!」

「今日このあとは暇?」

「うん。何もないよ」

「じゃあ、一緒に来て」

 レポート用紙をファイルに戻し遥に返すと、史郎はさっさと立ち上がる。慌てて荷物をまとめながら、遥は聞いた。

「どこに?」

「うち」

「え、和田君ち?」

 遥は思い切り大きな声を出してしまった。初対面の男子の家に上がるのはさすがにちょっとどうだろうか。

「カフェとか学食じゃだめなの?」

 遥が聞くと、史郎も気づいたのか、

「ああ、違う。実家。うち、手芸屋なんだ」

「手芸屋さん?」

「どうせ柘植さんは、かぎ針も毛糸も持ってないんでしょ」

「当然!」

 腰に手を当てると、「威張ることじゃないよね」と返される。そして、史郎はわずかに口の端を上げた。

「だから、道具をうちで買ってくれるなら、悪くない取引かなって思ってさ」

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