第一章 編み始めは輪の作り目(2)

 四月も三週目。大学構内の桜はもうすっかり葉桜だ。朝昼放課後のサークル勧誘のビラ配りもだいぶ少なくなった。

 先週はどの講義も一回目で、概要だけ聞いてすぐに終わるものも多かった。しかし、今週からは本格的に授業が始まり、すでに課題が出ているものまである。新年度の浮ついた気持ちを落ち着かせなくてはならないと思うものの、ゴールデンウィークは来週末に迫っているわけで、大講義室のあちこちで連休の相談が繰り広げられていた。

 そんな中、今年、新山にいやま大学の文学部に入学した柘植遥つげはるかは、レポート用紙に向き合って考え込んでいた。

 水曜の三限、一般教養科目の「西洋音楽史概論」。毎時間一作家を取り上げて、代表作や技法などの解説を聞き、残りの時間はその代表作を鑑賞するという、楽な――もとい、人気の授業だった。そのため、履修が抽選になって、一緒に申請した逸見里絵奈へんみりえな――知り合ったばかりの同じコースの友人だ――は落ちてしまった。他に知り合いも見つからず、この時間は一人で講義を受けていた。

 一人なのをいいことに、遥は講義内容とは全く関係のないものを広げていた。

 A4サイズの方眼のレポート用紙。その真ん中に鉛筆描きの絵があった。絵、なのだろうか。楕円やプラスの記号、アルファベットのTの縦棒を長くしてそこに斜めにちょんと線を書き足した図形。それらが規則性を持って綺麗に円形に並んでいて、花のように見える。

 何なんだろう。担当教諭が教室に入ってきて講義が始まってからも、遥はノートの横にそれを置いたまま、気にしていた。


 直前の昼休みのことだった。

 入学早々に入ったサークル「都内散歩研究会」、略して「都歩研とほけん」の集まりがあった。正式なメンバーは、新入生の遥と里絵奈も入れて十二人だけれど、いつも全員は集まらないらしい。今日も七人で、カフェ一号館、通称「イチカフェ」で、昼食を食べながら連休の予定を話し合った。

 都内散歩研究会は、その看板に何の偽りもなく、月に一回、都内の各所を皆で散歩するサークルだった。いちおう、散歩する場所の史跡やおいしい店などを事前に調べる「研究」もしている。先週の日曜には、新入生歓迎会も兼ねて、大学周辺を散歩した。先輩たちが、専門書が充実している古書店だとか、弁当がものすごく安い店だとか、おすすめスポットを案内してくれたのだ。最終目的地はおすすめの居酒屋だった。

 連休中のいつなら皆の予定が合いやすいか、散歩する場所はどこにするか。一通り決めて解散、というところで、遅れてやってきたメンバーがいた。

「隼人先輩、遅いっすよ」

 三年の会長の榊雄貴さかきゆうきが、男にしては高い声を張り上げる。真逆の低音で「すみませんね」と答えた牟礼隼人むれはやとは白衣を羽織っていた。

「研究室を抜けられなくて」

「そりゃあ、そっちを優先してください」

「先輩、今年で六年目なんですから。卒業できないとホントやばいっすよ」

 雄貴と、もう一人の三年、日立翔平ひたちしょうへいも言う。隼人は留年を繰り返したと新歓コンパの自己紹介で言っていた。

「六年で卒業できないとどうなるんですか?」

 果敢にも里絵奈が聞く。小柄な上にボーイッシュな服装の彼女は、ローティーンの少年のようにも見えた。

「退学になります」

 低い声でそう言われると、死神の宣告のようだ。その場にいた後輩皆が、「ひえぇー」「うわぁ」とそれぞれのリアクションで震えるのを見て、隼人は笑った。

「そうならないように、僕もがんばりますよ」

 それから、隼人は遥に向き直った。小脇に挟んでいたクリアファイルを差し出す。

「これ、柘植さんのですよね? こないだのコンパのとき、僕の荷物に紛れ込んでたようで、間違えて持って帰ってしまって。今日はこれだけ届けに来たんですよ」

 遥は後半の言葉はあまり耳に入っていなかった。渡されたクリアファイルの右下に油性ペンで「柘植」と書かれているのを見つけたからだ。

「柘植さん?」

「あ、はい。私のです。ありがとうございますっ」

 慌てて礼を言って、遥はファイルを胸に抱える。隼人は満足げに笑って、遥を見下ろしていた。

 このファイルは遥のものではなかった。けれど、この筆跡には心当たりがある。

 四年と四ヶ月前に亡くなった姉、南のものだった。


 隼人から渡されたファイルに挟まっていたのは、図形が描かれたレポート用紙が七枚。使われている記号はほとんど同じだけれど、並び方が全て違っていて、花だったり四角だったりを表現していた。

 姉は何をやっていたんだろう。

 南が交通事故で亡くなったのは、彼女が大学一年の十二月。五つ年下の遥は、中学二年だった。

 年が離れていたせいで喧嘩らしい喧嘩もしたことがない。比べられることはなくはなかったけれど、優等生の姉は憧れの存在で、張り合おうという気持ちも起きなかった。

 南が亡くなってから遥は、姉の足跡をたどるように進路を決めてきた。高校は近所の公立校だから選ぶまでもなかったけれど、必死で勉強して、大学も学部も南と同じところを選んだ。サークルもそうだ。

 今、遥は実家から一時間近くかけて電車通学している。しかし、当時、南は大学の近くに部屋を借りて一人暮らししていた。大学に入学してからの南とは、月に一度会うかどうかだったから、実際にどんな生活をしていたのか知らない。サークルについては一度だけ話を聞いたことがある。散歩のおみやげにキーホルダーをもらったときだ。

 六年生の隼人は、南と同学年だ。一年生の同時期を同じサークルですごしたのだ。先日の新歓で彼の学年を聞き、遥はどきりとした。自分の知らない南の話が聞けるかもしれない。いつか隼人に南のことを聞いてみようと思っていたところだった。

 今はもっと聞きたいことが増えた。なぜ隼人が南のファイルを持っていたのだろうか。もしかして特別な付き合いだったのだろうか。

 南の葬儀には、大学の友人も多く訪れた。弔問客一人一人を見ている余裕はあのときの遥にはなかった。帰宅したら、芳名帳を確認してみようか。

 初めて会ったとき、柘植という名字に隼人は反応しなかった。元々顔が似ているところに、髪型や服の趣味も南を真似たから、遥は南にそっくりだとよく言われる。それなのに、隼人の遥への視線は、初対面の新入生に向けるものでしかなかった。やはり、南のことは覚えていないのだろうか。五年前に間違って持って帰ってしまったファイルが、偶然このタイミングで出てきて、署名から遥のものだと思っただけなんだろうか。――そうだとすると、ずいぶんと物の管理が適当だけれど。

 里絵奈にはまだ南のことを話していないため、一人になるまでファイルを開くことができなかった。やっと中を見れたものの、全く意味がわからず、ヴィヴァルディの「四季」――「春」ではなくて「秋」だ――をBGMに遥は考え込んでいた。

 帰宅してパソコンで検索してみてもわからなかったら、気が進まないけれど、母に見せてみようか。

 眠気を誘うクラシックが終わり、出席代わりの感想を提出して教室から出たところで、遥は呼び止められた。

「ちょっと待って」

 振り返ると知らない男子学生だ。女子としては平均値の身長の自分より少しだけ背が高いくらいで、黒縁メガネが遥を見ている。

「はい?」

 遥が首を傾げると、少し怯んだように視線を揺らせて、

「さっき俺、後ろの席にいたから見えたんだけど、あの編み図って手書き?」

「編み図?」

「レポート用紙の」

 彼はそう言って、遥の鞄を指差す。南のファイルが少しだけはみ出していた。遥がファイルを取り出すと、彼は「そう、これ」とうなずいた。

「これってあんたが考えたの?」

 重ねてそう聞く彼に、遥は飛びつく勢いで身を乗り出した。

「これ何だかわかるの?」

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