境界の壁をそのまま見上げるか登って飛び立つか



 3



 不幸中の幸い、と呼べるかわからないが、未冬の義父は生きていた。

 そして、――――死んだ。

 一部始終を見たわけではないが、警察がそう話していた。

 経緯はこうだ。

 犯罪の暴露を恐れて母を殺そうと刃物を振り回す義父、言葉で解決できると踏んだ母。しかし、会話が成立しないほど錯乱していた義父に対して会話は不可能だと悟った母は、テーブルの上にあったガラス製の灰皿で抗戦。刃物は母の首へ刺さり、間もなく絶命したが、弱々しくもガラス製の灰皿も義父の頭部へと直撃。両者血を噴出させ崩れ落ちた。

 未冬のスマートフォンに着信があったのは、説得をしている最中だろう。どんなことを伝えようとしたのか、聞き出そうとしたのかは不明瞭、死人に口なしだが、その電話が殺人事件の早期発見に繋がった。

 その後、警官二人は救急車を呼び、両親を病院へと送り、治療後、義父の意識は回復する。

 頭の怪我で済んだ義父に対して、この件の詳しい事情などを聞き出すと、何も隠さず、母へ殺意を向けたと自白し、自分のした行為に対して反省の色を見せず、母が絶命したことを伝えた途端、たがが外れたかのように笑い出した。

 そして、警官二人の制止を振り切り、部屋を飛び出して、病院から飛び降り自殺を図った。

 ちなみに、未冬の弟晴人は予想通り、親二人の荒げた声を聞いて家を飛び出し通報したそうだ。元々、未冬との扱いの違いに違和を感じていた晴人は、逃亡、通報に躊躇することなんてなかった。

 そもそもなぜ、そのような行動を実行することができたのか、その答えは簡単だ。空想の産物、非実在、フィクション、要するに漫画の存在だ。いわゆる探偵物の漫画の内容が頭にあった晴人は、これを事件だとすぐに嗅ぎつけ、逃亡し通報することが可能だったというわけだ。

 かくして、吉場家で起こった殺人事件は、晴人の通報、義父の自白、母の電話などが功を奏して無事解決した。

 だが、未冬の問題が解決した、と言えるのだろうか。

「…………まぁ、言えないよな」

 未冬を苦しめていた根本は義理の父親、とは言い切れない。未冬だけでなく、俺の母でもある吉場美香だって、原因の一端を担っている。

 そんな二人が死ぬことではいめでたしめでたしとなるほど簡単な問題ではないし、本人が今どんな気持ちなのかわからないが、親を失うということだって重大な問題だ。

 要するに悪循環だ。完全で、完璧で、理想そのもの……そんな方法で解決すれば、そこで綺麗さっぱりするのだが、今回そんな方法はなく、その結果、虐待問題の解決した理由が発端となって、新たな問題が現れてしまった。

 そんな、親を失うという問題に解決策なんてないのだから、結局耐えるしかない。

 苦難の日々が続く。けれど人間、生きるということ自体が苦難なのだ。そんな苦難の渦の中で、どれだけ希望や幸福を見つけられるかが、人間の本質なのだと思っている。

 そしてもしも、苦難以上の希望や幸福を見つけることができなければ、例えば、自傷行為をして生死の境目を明確にするのだろう。俗に言う、生きている実感を味わう、だ。

「…………………………………………」

 パーカーの袖を捲り、左手首を眺める。

 そこには、過去の逸脱した行為を裏付ける、数本の白い線が残っている。

「消えないもんだな、軽く切っただけなのに」

 それでも、後悔だけが残ったわけではない。白い傷跡には、高校中退後の薄れている記憶が残留しているから、見るたび触れるたびに思い出すことができる。

 忘れたい記憶なのかもしれないけれど、そんな過去があるからこそ、今の自分が存在している。そう思える理由の一つが、未冬の存在だろうか。

 未冬は今、今後のことで東奔西走している。本人は自立するつもりのようだが、問題は晴人だ。聞いた話では、義父の両親が面倒を見ると言っているらしいのであまり心配はしていないのだが、正直な話、面識がないので特に感情が湧かない。

「ん?」

 助手席に置いてあるスマートフォンが振動したので手に取り、液晶画面を確認する。

 親父からの着信だった。

「もしもし」

『あ、柊涼か? 今どこにいるんだ?』

「んー…………コンビニの駐車場」

『まぁ場所はどうでもいいんだ。殺人現場を目撃したとか聞いて驚いたもんだが、お前、未冬のことを知ってたんだな。俺はそっちの方がびっくりだ。いつから知ってたんだ?』

「いや、まだ日は浅いよ。てか普通、事件のほうが驚くもんじゃないの?」

 親父は少し間を置いて口にする。

『…………美香……いや、お前の母さんだけどな。あいつは人間関係を作るのが上手いと思ってるみたいなんだが、実はそんなことなくってな。余計な一言が多かったり、人の話を都合よく解釈したり、それでいて注意深い。本人の視点から見れば完璧、けども他人の視点から見れば…………高慢ちきってとこか。とにかく、そんな女だから、人間関係が原因の何かに巻き込まれるのは不思議じゃないというか』

 なんというか、元奥さんに対してボロクソだなと思った。

『まぁ母さんはどうでもいいんだ。……ん、なんかデジャヴだな。それで、未冬はこれからどうするんだ?』

「一応、自立するみたいだけど…………詳しくはまだ」

『いや、な、本人の意志を尊重するが、困ってるようならうちで引き取ろうかな、とか思ってるわけだ。もちろん、お前の意見も聞く』

「それは突然、なぜ?」

 以前、一緒に住みたいと言われた際に、未冬へ伝えたことがある。各々の家庭がある以上、それはできない、と。

 しかし、両親を失うという形で家庭を失った今なら、それは可能なのだ。何より、親父から提案されたのだから、間違いなく。

『俺と未冬の血は繋がっている。それ以上の理由があるか?』

「……………………」

 反論する気は元々ないけれど、ぐうの音も出ない。確かに、それ以上の理由はないだろう。親子ならば、当然の行動だ。

「…………俺は当然、賛成だよ」

『そうかそうか! そうと決まれば、色々と準備しないとな。なんたって、家族が増えるんだからな。じゃ、またあとで電話する』

「なっ、まだ確定したわけじゃ――――あ、切れた」

 色々と思いやられると思った反面、親父の以外な一面を見れた気がした。

「この件、未冬に伝えないとか」

 手に持ったスマートフォンをそのまま操作し、未冬へ電話をかける。

 数秒呼び出し音が聞こえたあと、未冬の声が聞こえる。

『もしもし。お兄ちゃん、どうしたの?』

「あ、今、大丈夫?」

『うん。ちょうど……ってわけじゃないけど、色々と終わったところ。晴人は無事に引き取られて、あとは私自身の問題だけだね』

「そっか、それはよかった」

『ちょっと、私の去就は決まってないんだよ! だからまだよくないよ!』

「いや、まだ決まってなくてよかったよ。決まっていたら切り出しにくいからさ」

 一呼吸置いて、言葉を続ける。

「未冬、一緒に住もう」

『……………………えっ?』

「なーんて、カッコつけて言ってみた。正確には、うちで一緒に住もう、なんだけど」

『全然……全然嬉しいよ! 私がお兄ちゃんの家で住めるの? 大丈夫なの?』

「親父がさっき電話してきてさ、未冬を引き取りたいって言ってきたんだ。でも未冬、自立するって言ってたし、どうなのかなって思って」

『自立なんてできるかわからないけど、それでも、するしかないから…………不安でしょうがなかった。けど、そう言ってくれて嬉しいよ。本当に、本当に、嬉しい』

 言われてみれば、俺は配慮が足りなかったのかもしれない。当然なのだ、自立するしか選択肢がないことくらい。

「そう言ってくれてよかったよ。あ、わかってると思うけど、兄妹として、だからさ……気をつけてよ? 他人行儀とは言わないけど、それなりの距離感でさ」

『え、あ、うん。大丈夫、わかってるよ』

 本当に大丈夫だろうか。

「とりあえず一旦電話切るね。親父に報告しなくちゃだし」

『うん、そうだね。ばいばい』

 そうして終話した。

 一緒に住むとなった以上、俺にも色々と準備が必要だろう。汚くはないと思うが、自室の掃除。未冬が使用するであろう、空き部屋の掃除。リビングの……、掃除。

「掃除ばっかりじゃん!」

 あとは、未冬の所有物の運搬や、関係の辻褄合わせというか、それが一番の難題か。

 親父の前では兄妹として接するし、接しなければいけないが、家を出てから恋人として接するべきなのか頭を悩ませる。

 公共の場で恋人として接し親父に見られた場合、母親の時と同様に問題になってしまうのは必然であり、そう考えると、恋人として接する場所がかなり限られてしまう。

 それだけではない。未冬と共に外出する頻度も重要だ。

 仲がいいことは悪いことではないが、兄妹という関係が根幹にある以上、限度がある。

 一週間に二度や三度デートに行ったとしよう。それを数ヶ月続けた場合、普通の恋人同士ならば特に違和はないだろう。しかし、兄妹である俺と未冬がその頻度でデート……いや、遊びに行っていたとしたら、仲がいいでは済ませることができない、と思う。

 それに、アルバイト先のメンバーにはどう説明すればいいのだろうか。既に吉場未冬は俺の恋人として伝わっているので、兄妹と言うわけにはいかない。

「いや、可能性としては限りなく低いけど…………」もしも、親父とアルバイターの誰かが会話をして、話題が未冬だったとしたら、間違いなく関係は破綻する。

 八方塞がりなのだ。

 そんなもしもが起こらないことを祈って日々を生きるしか、選択肢がない。

 そもそも、兄妹という関係を知りながら恋人になることが異常だということの自覚が足りていない。世間に非難され、軽蔑され、それでも前を向いて生きるという自覚だ。

「そのためにも、未冬を家族として受け入れて…………一歩ずつ進むしかない」

 立ち止まって、あれこれ考えている時間や余裕はないのだ。やるべきこと、しなくてはいけないことを並列して思考し、行動しなければいけない。

 ブレーキペダルを踏み、刺さったままの鍵を回す。

「さぁ、頑張ろうぜ」




 親父が未冬を引き取ると言ってから数日後。

 未冬の住んでいた賃貸アパートの契約は今月までだが、一緒に住むと決まった以上、契約が切れるまで居座る必要はない。クリーニングこそしたが、人が死んだ部屋、いわゆる事故物件であることを考えれば尚更だ。数少ない未冬の荷物を車に積み、もう訪れないであろう一室から出発した。

 車を走らせてから十分ほどだろうか、未冬の新しい住居となる俺の実家へ到着する。

「あぁー、緊張…………。どこか変なところない? 大丈夫かな?」

「なんで緊張するのさ、実の父親なんだから変に意識しなくて平気だよ」

「緊張するよぉ。父親だとしても、初対面だもん」

 エンジンを切って車から降りる。

「荷物は俺が運ぶよ」

「え、やだ、私も運ぶ! 一人で家に行くのは無理! 一緒に行こうよ!」

「それもそうか」

 リアシートを倒して広げたラゲッジスペースに積まれている荷物を協力して降ろし、玄関へ向かう。二人で運べば往復する必要はなさそうだ。

「じゃあ玄関開けるよ。本当大丈夫だからさ、気楽に気楽に。徐々に慣れていけばいいよ」

「う、うん…………頑張るよ」

 顔面蒼白は言い過ぎにしても、明らかに顔色がおかしい。俺との邂逅の際はそこまであからさまな表情を浮かべていなかったと思うのだが、どうしてそこまで未冬を不安にさせるのか。

「…………………………………………」

 相手が父親だから、だろう。義理とはいえ、父に虐待されていた過去があるから、慎重にならざるを得ない。過去があるから、失敗できない。

 例え、実の父親だとしても、だ。

 しかし、ここで躊躇するわけにはいかない。荷物を地面において玄関のドアを全開にし、もう一度荷物を持ち直す。

「さ、入って。未冬の部屋とか案内するから」

 先導し、親父の気配を感じ取りながら未冬の部屋へと進む。

「あっ! 待って、お邪魔します」

 慌ただしく靴を脱いで整頓し、距離を詰める。

「お父さんは…………?」

「いや……………………」リビングやキッチンは無音、しかし親父の車は停まっていたため在宅しているはずだ。では、自室だろうか。「自分の部屋、かなぁ」

 両手で荷物を持っている状態では狭い階段をゆっくりと上りながら、二階へと到着する。

「まず階段を上ってすぐのこの部屋が、俺の部屋」喋りながら数歩進む。「で、これが未冬の部屋で、その奥が親父の部屋」

「お兄ちゃんの部屋、見たい!」

「別にいいけど、まず荷物とか置いてからね」と言って荷物を廊下に置き、未冬の部屋のドアを開く。「ちゃんと掃除したから汚くはな――――」

「我が家へようこそ、未冬!」

 大きな声に圧倒され、その直後に紙テープと硝煙が出迎えた。

「って、あれ、柊涼じゃん。未冬だと思ったのに」

「いないと思ったらこんなことするために隠れてたのかよ! クラッカーまで用意して!」

「こんなこととはなんだ! なんでも初めが肝心って言うだろ? だから友好的に出迎えようと思ってな。お前が最初に部屋へ入ってくるのは誤算だったが…………」

「いや少し考えればわかることだろ! 部屋の場所だって知らないんだからさ。それに、そういうことは事前に俺と相談してだなぁ」

 すると、背後からクスクスと笑い声が聞こえる。

「ふふ、ふふふふ、仲、いいですね。二人のやりとりを見てたら緊張がほぐれました」

 肩を揺らしながら相好を崩し、先ほどとは打って変わって顔に赤みが増している。親父の突然の出迎えは失敗したように見えたが、未冬の姿を見る限り、成功したと言っていいだろう。

「まぁ結果オーライってことで、荷物を置いて下に行くぞ。未冬、何が食べたい? 寿司でもピザでも、なんでも言ってくれ」

 クラッカーによるゴミを乱雑に手でまとめながら、親父がそんな提案をしてくる。恐らく近所の宅配サービスだろう、料理ができる人間がいないのだから。

「あ、えっと、私は…………その前に、自己紹介というか、挨拶というか」

「まぁそういう話はご飯を食べながらでいいじゃないか。あ、外食でもいいか! おい柊涼、オススメの店とかあるか?」

「いや、突然言われても……………………」

 何かあったっけ、と未冬に小声で話しかけながら考えていると、親父は自室へと向かってしまった。外出の準備だと予想し、特に気にかけず、尚も行く先を考える。

「………………ははっ」

「どうしたの?」

「いや」こんな日常が訪れるとは思っていなかった。そんなことが頭を過ると、思わず口角が上がってしまう。

 重苦しく、居場所のない毎日を過ごしていたであろう未冬は、出会った当時から比べて表情が豊かになったと思う。ただ単に人見知りなだけなのかもしれないが。

 しばらくして、部屋から親父が戻ってくる。

「行きたい場所は決まったかー? もう無難にファミレスとかでいいか?」

「ファミレス……………………」

 未冬はファミリーレストランに対して、どのような心情を抱いているのだろうか。忘れようとしていても、ファミリーレストランと聞けば一連の事件を思い出してしまうだろう。

 しかし、そんな悲観的な疑問とは裏腹に、未冬は親父の提案を肯定する。

「ファミレスだったらいろいろメニューありますし、いいと思います」

「じゃあ決定な。準備できたら下来いよー」

 そのまま親父は階段を下りてしまった。

「未冬、本当にファミレスでいいの? 言いづらいなら、俺が言って変えてもらうけど」

 だが未冬は唇を噛み締め、首を振った。

「ファミレスなんてどこにでもあるのに、それを見る度に嘆くのなんて嫌だから。新しい家族で、初めての外食……そんなファミレスでの思い出をどんどん増やして、記憶を薄めたい」

 それは未冬なりの、過去との決別なのだろう。無理に打開せず、徐々に悲しみの度合いを弱くして生きていくという決断だ。

「だから、早く行こう! お父さんもいい人でよかった!」

「未冬が来ることになってから、嬉しいみたいだよ。あんな喋る人じゃないと思うんだけど、意外な一面を見れ、た――――」

 未冬は目を細めて笑っている…………はずなのに。

「未冬、泣いてるの?」

 目尻から頬を伝い、涙が一粒床に落ちる。

「えっ、あれ、なんでだろ」

 そして、涙を認識した途端、目頭からも涙は溢れ始めた。

 ボロボロと落ちる涙を手の甲で拭っているので、自室へ行って二枚ほどティッシュを取り、未冬に手渡す。

「ほら、涙拭いて。突然泣き出して……大丈夫? 何か思うことがあった?」

 ティッシュで涙を拭きながら、未冬は笑う。

「お父さんの優しさが、私には強すぎたみたい。あの人には……愛情なんてなかったから」

 その笑顔の本質は、痛み。

 痛いほど感受する、愛だ。

 篠田伶と御沓沙絵の“愛の力は偉大”という言葉を思い出す。当時は猜疑的だったが、未冬からの愛を受け取り続けている今ならわかる気がした。

 だがやはり、偉大な力ではないと俺は思う。愛とは時に、人を滅ぼすからだ。

 枯渇した心の器に注がれた愛は容量を超え、涙となって溢れ続ける。そして愛とは、劇薬のように作用する、人間そのものさえも変化させることができる持って生まれたウイルスのようなものだと結論付ける。

 愛というウイルスに耐性のない未冬では、いとも容易く感染してしまうだろう。

「俺には未冬の気持ち全てを理解することができないけど…………親子って、こんなものだと思う。時に喧嘩、時に叱咤、でもそれは、全て愛情があるから成立するわけで、そんな日もあれば、一緒に外食へ行くようなことだってあるよ」

 親子という関わりは、未冬が家族となったことで尚更深まるだろう。今日の親父の張り切りようが何よりの証拠でもある。

「それが親子、なんだよね」凛とした表情で俺を見据える。その目は充血していたが、涙はもう止まったようだ。「早くお父さんのところへ行こっ!」

「そうだ、早く行かないと!」

 荷物を未冬の部屋へ置いて、クスクスと笑いながら階段を下りる。

 親父はリビングで待ちくたびれたと言わんばかりに、わざとらしく息を吐いて出迎えた。




 親父の車で向かったファミリーレストランは、事件の前に訪れた店だった。自宅から近いのでそうなるだろうとは予想していたのだが。

「さぁ、好きなものを頼め。まぁアルコールは駄目だけどな」

「そんなこと言われなくてもわかってるっての」

「…………お兄ちゃんはどれ頼む?」

 テーブル席、正面が親父、隣に未冬が座った。そんな中、一つのメニューを未冬と共に見ながら談笑している。

「それにしても、お前たち二人は仲がいいな。まだ知り合って短いはずなのに、まぁ兄妹だから打ち解け合うのが早いのか」

「……………………そう、だと思うよ」

 すっかり距離感を忘れていた。恋人ではない、兄妹という距離感で接しなければいけない。

「ちょっとトイレ行ってくるわ。俺はあとで頼むから、店員呼んじゃってもいいからな」

 そう言って親父はトイレへ向かってしまった。

「お兄ちゃん」

「ん?」未冬が少し声色を変えて呼ぶ。

「私ね、結構お母さんのことが好きだったのかも」

「………………………………」

 突然、目を合わせず、メニューを見ながら告白を始めた。

「もちろん、嫌われていた実感はあったし、私も嫌いだった。でも、本当に時々だけど、私に対して母親らしいことをする時があったなぁって思い出すの。そんなことを今更……失ってから気が付くと、もしかして嫌いっていう感情は反抗心で、親と子っていう関係ならではのものだったのかなって」

 ソファにもたれて、未冬は続ける。

「だってさ、お母さんが倒れていた時、本当に辛かったよ。それは親と子の本能かなって思うし、あの人と再婚していなければ、嫌われたりせずに育ててくれたのかなぁなんて思ったよ」

「確かに……離婚なんてしなければ、とは思う。でもそれは男と女の関係というか、不倫は駄目だけど、駄目の一言では片付けられないしね。惹かれてしまったお母さんも悪いし、不倫だと知っていたのか定かじゃないけど、義理の父だって悪い。それに、不倫させてしまった親父だって、多少の非はある……かもしれない。まぁ本当に今更言ってもしょうがないけどさ」

 こんなことがあるから、愛の力は偉大と言い切れないのだ。

 未冬は納得したのか、姿勢を正して再度メニューを見始めた。

「自分の全てをがむしゃらに伝えるとスッキリするんだね。そんなことを嘘偽りなく言える、聞いても幻滅されない、そんな人が一人でもいるのは幸せだ」

「そんな人でいられるように頑張るよ」

「あら」

 聞き覚えのある声が右後方から聞こえ、その方向へ顔を向ける。

 薄い水色のワンピースにロング丈のベストを合わせ、つばの狭い麦わら帽子をかぶっている女性が立っていた。

 俺は当然、未冬も知っている、宮島碧だ。

「こんなところで…………奇遇ですね」

 宮島碧は躊躇なく向かいのソファに腰掛け、口を開く。

「そうね、廿浦くんとはいつも、思いがけなく会っている気がするわ」そして、未冬に視線を移す。「吉場未冬さんも、お久しぶりね。いや、今は…………廿浦未冬さんと呼んだほうがいいのかしら?」

「えっ、あ、えっと…………えぇ?」

 戸惑いを隠せない未冬だが、それは俺にも言えることだ。

 なぜ宮島碧はそんなことを口にしたのか。考えられる理由は、俺たちが兄妹だと知り、それだけではなく、一緒に住み始めたことさえも知っているということだ。だが、誰にもこの話をしていなければ、つい先日の話だ。知り得ているわけがない。

「ふふふ、冗談よ。まるで夫婦のように、仲睦まじいから言ってみただけ。気にしないで」

「そ、そうですか……? そう見えますか?」

 未冬はただの冗談だと信じ、受け止めている様子だが、これは明らかに俺たちの関係を知っている上での発言だ、口角が上がった瞬間を見逃さなかった。

「おっと、おっとぉ? こちらの美人さんはどちらさまかな?」

 すると、不思議そうな面持ちで親父がトイレから戻ってくる。

「柊涼さんとは元同僚でして、私、宮島碧と申します。本日はたまたま遭遇しまして……お父様と一緒だとは思わず、ソファに腰を下ろしてしまいました」と言いながら宮島碧は立ち上がり、席を譲る。

「これはご丁寧にどうもどうも」親父は言われたまままソファへ移動し、先ほどよりも奥で腰掛け、同じように手を差し出す。「宮島……さん? もどうぞ」

「ありがとうございます」と笑顔で答えながら宮島碧も同じ位置に腰掛けた。

「宮島さんってのは、あれだろ? 前にバイト辞めるからってどんちゃん騒ぎしてたとかって言ってた、その辞めた子だろ?」

「そうだけど、別にどんちゃん騒ぎなんてしてないから」

 宮島碧は口に手を添えて目を細めている。アルバイトの最中に頻繁に見せていた、下手な愛想笑いというやつだ。

「それで、なんでバイト辞めたの? 言えない理由があるなら深く追求しないけどな」

 よりにもよってなぜ、それを聞いてしまうのか。唇を噛み締め、宮島碧の動向を見守る。

「実はですね…………好意を寄せている人がいまして、詳しくは話せませんが、その人のためにというか、その人のせいでというか、そんな理由でアルバイトを辞めることにしました」

 そして、宮島碧は俺に視線を移し、微笑む。

 言葉では濁しているものの、“その人”というのが誰か示している態度だ。

 音を立ててつばを飲み、無表情の仮面で着飾る。

「…………ねぇねぇ、あの、その人が誰だか知ってるの?」

 隣で未冬が俺以外には聞こえない音量でそんなことを尋ねる。少し口ごもったのは、今この状況での呼び方がわからなかったからだろう。

 だが、その問いに答える前に、親父が口を開いた。

「まぁその……俺が言うのもおかしな話だがな、相手のことをしっかり見定めて、悪い部分を知っていなきゃ駄目だ。要するに、盲目的にならないで、悪い部分を受け入れることだ。人間である以上、悪い部分っていうのは絶対にあるからな」

「それは例えば、倫理的な過ちを犯している人だとしても、受け入れるべきでしょうか?」

 確信はより強固なものとなった言葉だった。やはり、宮島碧は全てを知り得ている。

「しかしですね、彼は今現在盲目的になっているだけで、それほど頭を悩ませているわけではないのです。時が経てば、自分自身の過ちに気が付くでしょうから」

「言い返すようだが、盲目的なのはどっちも、じゃないか?」

「とはいえ、それは誰とは言いませんし、私が好いている人とも明言しませんけれど」

「なんだよそりゃ」と親父が笑った直後、宮島碧が耳を疑うようなことを言い放った。

「私が好意を寄せている人は廿浦柊涼さんですから」

 親父、未冬、そして何よりも俺自身が驚愕し、必然的に宮島碧へ視線が集まる。

「そんなに驚かなくても…………ねぇ? 廿浦くん」

 問いかけるように言葉を続ける宮島碧は、先ほどのように口角が上がっている。これはしてやった表情と考えていいだろう。偶然出くわしたというのも、恐らく嘘だ。

「おい柊涼…………お前も隅に置けないなぁ」

 親父はニタニタと笑いながら、宮島碧と俺を見比べている。

 そして左方から感じる、撃ち抜くように鋭い視線。弁解できる状況ではない以上、口は噤むべきだ。

「…………………………………………」

 奥歯を噛み締め、未冬へ告げた言葉を反芻する。

 浮気を駄目だと言い切らず、した本人、された本人、どちらにも非があると言った。そんな持論を曲げるつもりはないが、いくらなんでもタイミングが悪すぎるだろう。宮島碧とやましい関係を構築しているから浮気を否定しなかったと思われても仕方がない。

 ――――私は廿浦くんの毒になるわ。

 もしかすると、これが宮島碧の言う“毒”なのだろうか。

 兄が妹を、妹が兄を異性として見ることの異常性を回りくどく非難し、ジワジワと苛ませる毒。そんな、俺と未冬の視点からすれば悪意そのもの、世間の視点からすれば善意そのものになり、こうして行動している。

 だが、その過程が事実だとすれば、毒になると宣言したその日から、俺と未冬の関係を熟知していることになる。

 不可能ではない。

 宮島碧は欲するもののためなら手段を選ばないと明言し、現に漏れているはずのない情報を何らかの手段で得ているのだから、彼女ができたと告げられた後、何らかの手段で吉場未冬という人間の存在を知り、芋づる式に詳細を知っていても…………おかしくはない。

「痛いほどの視線を感じますので、今日は失礼します。また後日会いましょう、皆様」

「あ、そうかい。どうもねー」

 親父はにこやかに別れを告げ、宮島碧はこの場を後にする。

「どのくらいの仲なんだ? あのー、宮島さんとは」

「…………全然だよ。そもそも俺には――――」


「お、お兄ちゃんは、私のものだからッ!」


 突然の未冬の宣言にまたしても驚愕する。去る途中の宮島碧も一瞬、歩みを止めた。

「おいおい、大胆不敵な発言をしたなぁ、ずいぶんと」

「……………………はぁ」

 深く息を吐いて、強制的に気持ちを落ち着かせる。

 先ほど溜まった感情を中和しなかった報いだろうか。無視をしたと捉えて、腹いせに宣言したのかもしれないが、後の祭りだ。

「ん…………? ちょっと待てよ、さっきの話」

 親父が勘付いた。いや、勘付いてしまったと言うべきか。

「まさか……とは思うが、宮島さんの好きな男がお前で、倫理に背いているというのがお前だとしたら、それはつまり兄妹で好き合う仲ということを言っている……のか? 未冬の今の発言が、それを裏付けているということなのか…………?」

「い、いや、宮島さんの好きな人とは言ってないから!」

「まぁ、さすがに兄妹で恋愛は…………ないよな。昼ドラでも今日日やらねーよって、まぁ見ないから知らないけどさ」

 上手く誤魔化せたのか、一般常識が非常識を認めずに落ち着いたのか。少なくともこれから先、キスの目撃なんてもってのほか、一緒に歩いているだけでも一言二言余計なことを言われそうだ。

「ん?」ポケットの中に入っているスマートフォンが震える。だが、今はその理由を確認している場合ではない。

「別に家事が完璧で端正な顔立ちでお淑やかな女性と結婚しろとは言わないが、せめて普通の女性と付き合えよ? 例えば、実は男が好きで……とか、俺よりも年上の人が好きだとか、そういうのはいいから、普通に、普通に頼むよ」

「普通って何ですか? 普通の定義を教えて下さい」

 火に油を注ぐように未冬が噛みつき、尚も続ける。

「そもそも、悪い部分を受け入れるべきと言ったのに、普通という曖昧な枠で縛り付けるのはいいんですか? 受け入れる気があれば、その普通という枠組みはいらないと思います!」

 これでは俺たちの関係を否定されたことに対して憤怒しているようにしか見えない。せっかく鎮火されかかった話題に濃い酸素を送り込むかのような未冬の口撃だ。

「未冬! いいから落ち着こう」

 制止され、目と目が合うと、さすがに口の動きは止まったが、明らかに納得していない態度を見せている。

「まぁ確かに…………悪い部分を受け入れることだと言ったくせに、普通を強要するのは間違いかもしれんな。だがな、悪には限度がある。それを弁えろ、とは言わせてくれ」

「…………わかっています」

 未冬は俯いて口を尖らせ、握りこぶしで頬を撫でた。親父の言っていることに間違いはないと自覚し、それでも少し納得がいかない……今はそんな気分なのだろうか。

「それにしても、あれだ。いきなり火花を散らすとは思わなかった。さっき初めて顔を合わせた時とは別人のように食って掛かったな」後頭部を指で掻く。「それくらい柊涼のことを考えている、とプラスに思っておくよ。変な意味じゃなくてな」

「はい! ありがとうございます!」

 最悪の展開にならず、ホッと胸を撫で下ろす。

「…………さてお前たち、ここはどこだ? ファミレス、だな? 何か頼もうじゃないか」

 宮島碧が来た際に置いたメニューを開いて注文を促した。

「そういえば」とスマートフォンを取り出して、先ほど通知された恐らくメールの内容を確認する。

「………………………………はっ」

 受信したメールは宮島碧からのものだった。

『未冬さんの発言は、廿浦くんを苛む言葉となるでしょう。間違った道を歩み続ければ、行き着く先は社会的、死。そんな現状にいつまで耐え忍ぶことができるのか見守らせてもらうわ。そして、禁断の愛を貫くことができないのなら、生きることが恥に感じたのなら、未冬さんを捨てると言うなら、私は喜んであなたを受け入れるわ。それまで、ごきげんよう』

 毒を以て毒を制す、とでも言いたいのだろうか。

 救いようがない状態になるよう仕向け、道を閉ざそうとしている。そして残った道を大げさに言えば、今までの人生を捨てるまでの覚悟で世を憚る、ということだ。

 その覚悟がない――――要するに、兄妹で愛しあうという非社会的行為を続けることができないと悟った時、残るのは失望感と恥だろう。

 毒が滴る隘路の先で、他には誰も味方はいないと毒牙を突き刺し、嫌われたとしても尚、宮島碧は待ち続けると舞台から退場した。

「…………上手く、立ち回ってやるさ」

 決して、宮島碧の思惑通りにはならない。

「どうしたの? お兄ちゃん。頼むもの決めようよ」

「あぁ、うん」

 未冬を守り、未冬との日々を守る。そのためにも、自分自身が強くならなければいけない。

「今度またさ、御沓さんと遊びに行こうか。お世話になったのにあれからバイトでも会えてないし、これからのことも…………色々と相談に乗ってもらいたいし」

 自分自身を強くするということは、孤独に生きる力を得ることではないと思う。味方になってくれる人と親交を深めて土壌を固めることだって、立派な強さだろう。

 俺は仲間に頼る。今まで孤独だったから、仲間の強大さを知っている。

「御沓さんだったらいいよ、私たちの唯一の理解者だからね。それに……」眉間にしわを寄せる。「宮島さんのことも聞きたいからね」

「唯一…………か」

 闇雲に理解者を増やすことは得策ではない。恋仲を告げられるほど信頼のできる人がいたとしても、その事実を受け入れるかどうかなんてわからないからだ。

 仮に近親愛を描いたドラマや漫画を好んだとしても、それはフィクションであり、現実世界の近親愛をどう思い感じるかは不明瞭だ。気持ち悪いと思うかもしれないし、フィクションと同様に受け入れるかもしれないし、目立った反応を見せず徐々に連絡が途絶えていくかもしれない。

 そんな賭けに出て友人や知人を失うのなら、隠し通すべきだろう。

 難解だ。味方を欲するが、手に入れようと行動することは恐らくできない。

「…………………………………………」

 難しいことを考えるのはやめて、今は家族での食事を享受しよう。未冬の問題を解決した時と違い、今日明日で未来が決まるわけではない。

「俺たちはこれから、どこへ向かうんだろうって今、ふと思った。兄と妹っていう境界を超えたその先にあるものは、一体何なんだろうって」

 答えを知りたいわけではない。本当に、率直に、思ったことを口にしただけだ。

 そんな疑問に、未冬は答えてくれる。

「…………境界のその先は――――」しかし、言葉を遮るように、親父が音を立ててメニューを閉じ、口を開く。

「二人はこそこそ話をやめて決めなさい! もう店員呼ぶからな」

「は、はい」

 親父がコードレスチャイムを押し、笑顔で注文する品の決定を急かす。

「えっ、えーっと、んー……」と呟きながら忙しなく目を泳がせている未冬の横で「俺はこれね」とメニューを指差した。

 取り立てて未冬の言葉の続きを聞く必要はないだろう。

 肉体的、精神的な痛みで疲れ果てた未冬に、無気力に寿命を費やした俺に、ちっぽけな幸福を分け与える些細な日常。そんな、珍しくもない家族とのやりとりが、未冬にとって幸福であり、それは俺にも言えることだ。

 これから先、様々な問題が発生するはずだ。だが、自ら苦難の渦に飛び込んだのだから、何も後悔していないし、苦難のない人間などいないのだ、乗り越えてみせる。

 宮島碧から届いたメールの返信を一行だけ、彼女の言葉を用いて入力し、送信する。

『ありがとう。ますます、未冬が好きになれた』

 送信が完了し、スマートフォンをテーブル置いて、未冬の横顔を見る。

「あっ」

 未冬も同じタイミングで横を向いていた。そして、目と目を合わせたあとに頬を少し赤く染めてから俯き、父親には絶対に聞こえない音量で呟いた。

「………………お兄ちゃん、大好き」

 左手首に身に付けられているブレスレットが淡く光った――――ような気がした。

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