最終話 山田肇くんとカタストロフと童貞たち (後)

敷屋は子供の頃から変わらないところに住んでいるから、道中は懐かしいもので溢れていた。暗雲さえなければ、肇に、ノスタルジーの心地よさに浸れたはずである。

敷屋の家は立派な一軒家であった。ドアホンを押すと出勤前の敷屋が慌ただしそうに出てきた。


「おま、何しにきてん、アホちゃう」

「敷屋さん、そうそうお時間は頂きませんから」と鈴音さんが彼に近寄り、腹を殴った。そして彼を車に詰め込んだ。

「あの、おばさんいますか、お久しぶりです肇です。今日、タケと約束してたんで連れていきますね」と言っておいた。

そして、自分も出勤していないことを思い出した。


後部座背がもにょもにょしはじめた。

「お、タケ起きた」

「おまえ、ほんまに何しにきてん。誘拐やぞこら」

「肇さんではなく、私がやりました。お久しぶりです、敷屋さん」

肇が振り返ると、何もかもを理解していない男の間抜けな顔があった。自分とよく似ていることだろうと自嘲して、あとは鈴音さんにまかせることにした。


しばらくすると敷屋は落ち着きはじめた。

「失礼ですけれど、最近、眠れていますか」鈴音さんが見計らってたずねた。

いよいよ自分も核心に触れることができると思うとハンドルに力が入った。

「あまり、よく覚えてないけど、じめじめした悪夢かなにかをみて寝覚めが悪い」

「そうですか」

「カウンセラーみたいですね」

「カウンセラーは立派な職業ですよ。私はただのオカルトです」

「そうですか。よくわからんことには付き合ってられませんよ。肇は、言いなりみたいやし。説明してくれませんか」

「タケ、最近見る夢ってもしかして、大阪駅をチンチンが破壊する夢じゃないか?」

「おま、なんで知ってやがる……、そうだよ。場所は大阪駅じゃないけど」

「なるほど、あくまで何を破壊するかは個人次第ということですか」鈴音さんは窓の外をみた。さっきより雲が垂れ込めて地に近づいていた。肇のスマホが振動した。メッセージは鈴音さんからであった。彼はため息をついた。『うまく童貞であることは恥ずかしくないと伝えてください』彼は内心で無理だと呟いた。


「なぁ、タケは僕がどういうやつだと思う?」

「……心の弱いやつ、逃げ腰のやつ、運のないやつ、あとは」

「やめて、心が持たない」

「でも、すごく正直なやつ。だから間抜けなやつでもある」

懐かしい街は抜けて、知っている街も越えて、鈴音さんが指示するままの道を行く。通行量が多くなり運転に気が抜けなくなった。

「実はな」と肇は切り出した。鈴音さんは額を押さえていた。


「ふざけてるな。俺らが見てる夢のせいで大阪駅が壊れるんか」

「いえ、夢のせいではありません。集合体に刷り込まれた幻想が原因ですね。おそらく、存在価値を示す方法が今まで彼らのさらされた方法しかなく、屈辱をはらすために実体ある社会を転覆しようとしているだけです」

「肇、変な奥さんを捕まえたな」

「でも幸せだよ」

「俺にはわからんけどさ。愛については領分じゃない」

「明け透けにいうと、多くの人が受けたであろう、性交体験の有無で受けた暴力や蔑みが、現実に対して牙を向きはじめたわけです」

「俺は、気にしていない」

「暴力は事実だけがあります。貴方の記憶が夢になり、同じような夢と結び付いているだけです」


肇は、車を止めた。指示された場所は大阪駅である。駐車料金の高さに閉口した。

夢の中で立っていた場所である歩道橋の上にいた。サラリーマンや学生があきれるほど多い。


鈴音さんはカメラを取り出して、さらに肇と敷屋の間にマイクをおいた。

「どこにあったの、それ」

彼女は二人を無視して大きな声でさけんだ。


「ただいまより~、新進気鋭、幼馴染漫才師によるゲリラ漫才でぇ~ございます。今回のお題は童貞でございます」

は? と二人は硬直した。急ぎ足で去っていく中年男性の視線をあびた。高校生は指差して笑った。

鈴音さんはカメラをこちらに向けた。肇は、敷屋に一生のお願いだと言った。


「肇ちゃん肇ちゃん」

「なにタケちゃん」

「俺、童貞なんやけれどどうやったら他の人から馬鹿にされへんやろうか」

「なんや、タケちゃんを馬鹿にするやつがおるんか。僕は許さへんからな」

行き交う人々は失笑さえせず過ぎていく。

「どう考えても嫁さんに嫌われてそうなおっさん上司がな、馬鹿にしてくるんや」

「そうやな。男の9割は姉や妹やママからも笑われてるもんな。そいつに言ったれ」

「あぁ、言ってやった。その歳で女を抱いたのだけが自慢かって」

「ちゃうちゃう、女に抱かれたって言ってやるねんな。そういう奴には」


一人、猫背の男がこちらをみていた。どうやらマイクは遠くにまで響いているらしい。歩道橋の下の女子高生はこちらの方を指差していた。肇は、それが嘲笑であるとさとった。


「なるほどな。肇ちゃん。でもさ、俺、そいつのこともうちょっと貶したいんよ。というか、同級生の下関とか宇部とか」

「同級生、そんな山口県みたいな名前やったっけ。まぁええわ。それで、同級生にはなんて言われてんや」

「童貞は女心がわからんって。一生、挙動不審で職質されるやってさ」

「そうかぁ。僕はタケちゃん以外の男の気持ちは分からんから。まして女心は。偏差値の低い教育やったから。でも俺は童貞じゃない」

「へぇ、それはなんでやと思う」

「論理的には、強姦魔も童貞ではないことと一緒やから。分からないことを分かるっていうのは、小銭稼ぎのコメンテーターだけでええねん」

「水道橋博士かよ。ちょっと古いぞそれ」

「わかったか。要は気にするなってことや」

「あとな、取引先。あいつら童貞は信用できないって言うねんな」

「ほう、それはどうして」

「同じ人間やと思えないからと言ってる」

「同じ人間じゃないからな」

「そういう意味じゃないやろ。たぶん人間として信用できないって言ってるねんな」

「それはひどいね。じゃあその人は童貞の犬を見て犬として信用できない、童貞のカブトムシを見てカブトムシとして信用できない、なんて言ってるの」

「言ってないやろ、それは。あとさ、肇ちゃん、俺はどうやったら人に馬鹿にされないかを聞いてるねんって」

「え、タケちゃんを馬鹿にするのが人やったん?」

「もう肇ちゃんってば。あ、漫才は終わりますぅ」


肇たちは誰も笑っていないが数人が見ているその場から走って逃げた。


数分後にはどんなてぎわなのか、上質な音声でYouTubeにあがっていた。再生回数は不正をしたとしか思えないほどだ。


「え、え、あれがさらされてる。イヤやねんけど」

「諦めてくれ。で鈴音さん、これはどうやって」

「肇くんと敷屋さんが見ていた夢の中にURLを貼り付けて強制的に視聴させた。夢遊病みたいになったはずだと思うけど」あとは、と彼女はTwitterを取り出して彼らに動画を拡散させるようにしていた。


「うわ、こんなつまらんのがワケのわからん手口で」

「大丈夫です」

「なにが」

「お二人のおかげで、ほんの少しだけ人の意識が変わったみたいです」

空を占拠していた暗雲は散り散りになり太陽の光がさしてきた。


「夢はほんのすこし現実から遠のいたみたいです」


本当にまるで、夢のような一日だと敷屋が笑った。確かになと肇は笑ってこたえた。



「起きてください肇さん」

彼はベッドから身を起こした。妻の鈴音さんが布団を捲りあげたから起きる時間らしい。

「なにか、変な夢を見ていた気がするんだけど」

「あのままで良かった?」と鈴音さんが言った。なにがあったのか肇には思い出せそうになかったが、堆積した心地よい気分は足取りを軽くした。

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山田くん一大事 古新野 ま~ち @obakabanashi

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