第9話 山田肇くんとカタストロフと童貞たち (前)

山田肇がJR大阪駅と阪急梅田駅をつなぐ歩道橋で目撃したのは突風に吹いているわけでもないのに落下していく雑居ビルの看板である。金融会社の看板が壊れるのは10年近く返しても返しきれない大学時代の奨学金を思い出して気味が良かった。家電量販店の外壁が崩れてコンクリートと人と家電が道路に吐き出され、レジャー施設の目玉である大観覧車が支えを失い転がりはじめて、電車は高架下の公道を塞ぐように落下した。空には看板だけでなく塵や芥で片付けられない巨塊の群れが渦巻いていた。


呆然と見つめているのは肇だけでなかった。彼はいま複雑に入り組んだ道路の上の歩道橋にいた。ここも崩れるかもしれないと、背後の駅ターミナルに足を向けた。そこは崩落がはじまっていた。


陥没から逃れた人々の群れが駅から這い出してくるその顔は汚れており、駅の後ろに構えて悠然としていた商業施設が中階から折れて残されていた人々が堕ちていた。肇は、老婆と目があったきがした。声がきこえた気がしたのだ。実際は黒い影のようにしか見えていなかったにも関わらず。


頭から血を流している者や肩や大腿部を欠損している者などがいた。彼らの通りすぎた後は足跡のついた血だまりになるだろう。


学校指定のエナメルバッグを抱えた男子高校生の集団が、渋滞で身動きのとれなくなっていた車道を横断していた。その後ろを何人もの人がついていく。車から降りて逃げる人がいる。車道が機能しなくなるまで十分もかからなかった。


傍観していた肇は自分も当事者だったと気がついたのは、自分の立っていた歩道橋が割れたためである。自分が反転して空を眺めながら沈んでいく。近くにいたサラリーマンや外国人観光客の声はわかったが、少し遠くにいる人たちの声は皆一様にきこえた。

背中や頭がどれだけ痛くとも、痛い間は生きていた。肇は路線バスの上にいた。偶然彼の近くにいた者たちが起き上がり、そうでなかった人たちがコンクリートで頭が割られた生気のない目で肇たちを見つめていた。韓国語でなにか肇に問いかけてくる女性の顔を、肇は二目と見れなかった。鼻が潰れて前歯が無くなっていた。


異様な風が漂っていることに気がついた。よく知っている匂いを含んでいた。海産物に喩えられることの多い汗と常在菌などで噎せるような匂いだ。そして肇は気がついた。駅を貫いている巨塔の存在に。それは、駅の天井を貫いて商業施設を越えて、暗雲が立ち込める空に屹立している。


それは超巨大であり、性的に興奮したらしい、男根であった。



生きている人たちはスマホを片手に連絡や上空の様子を撮影するなど慌ただしい。肇は、自分が死にかけた原因がこれかという理不尽な思いであった。

彼も家族に連絡せねばと鞄から取り出した。すると、妻の鈴音さんからメッセージが入っていた。そろそろ起きてほしいと。


ヘッドフォンをつけたまま眠ったようでよほど寝苦しかったにも関わらず寝返りをうてなかったのか、むず痒い。

「どう、気分は」

「いや、あのえっと」肇は口ごもった。どのように説明すればいいのだろうか分からなかった、オチンチンが大阪駅周辺を破壊しましたという小学生じみた夢のことを。


「どんな夢を見たの」

「たっ、たいしたことないよ。うん、いつも通り」

「そう。いつも通りの、どんな夢を見たの?」

鈴音さんは追及の手をやめず肇が誤魔化そうとしても本題にもどる。彼はついにしびれを切らして言いたくないと答えた。

「答えて、肇くんが考えている以上に深刻だから」肇は面食った。鈴音さんの眉に入った力具合が、それを物語っている。

「っ、チンチンが」

「チンチンが、なに」

「でっかいチンチンが大阪駅を壊す夢」肇は屈辱であった。寝起きに、妻の尋問に耐えきれず恥辱そのものであるような夢の話をすることに。それに伴い、自身の欲求不満ともとられかねないことに。


「なるほど。話は変わるけど、もしかして敷屋さんって童貞?」

肇はますます混乱した。自分の夢と、自分の25年来の親友である敷屋武人の性事情が、自分の配偶者にどのような関係があるというのか。そもそも、と肇は考える。敷屋と鈴音さんの接点は、自分達の結婚式に呼んだことくらいであるはずだ。


「聞いてきた限り、恋人がいたことはないけど」

「敷屋さんに連絡はとれる?」鈴音さんは言った。

鈴音さんと付き合っていて、自分がするすると事情についていけたことが無いことを思い出して諦めることにした。

「LINEなら知ってる」と肇は答えたが、鈴音さんは窓の外を眺める。あっ、と言って肇の手をひいた。外はさっきまでの夢とにて、原油のように黒い雲が嵐の岩礁の波のように千々に乱れていた。

鈴音さんは急いで車を運転するよう肇に命じた。そして彼女はトランクに荷物を詰め込んだ。

「肇くん、今すぐ敷屋くんの家にいって」


「結婚式のとき、敷屋さんがうたた寝していたの知ってる?」鈴音さんは唐突に切り出した。

「あぁ。二次会でいじった気がする」

「私、彼の見てた夢が気持ち悪かったのを見過ごしていた。あれは彼だけが見ていた夢じゃなかった。この文化圏にいる何人もの人たちと共有していた」鈴音さんが、わけのわからないことを言うのはいつものことであった。肇は慣れていたが、まさか鈴音さんは人の夢を覗き見れるとは驚いた。そして、自分の夢を見られていたのか。いつの日かの夢では、身長が10メートルほどになった自分の肩に鈴音さんを乗せてデートしていたのを覚えている。

「どんな夢だったの」

「私、わざわざ汚い映像をを観る趣味はないの。でも、あの気持ち悪い夢が流行してると知っては見逃せないわけ」鈴音さんは人差し指を立ててスラスラと説明する。そしてその指を肇に向けた。

「で、肇くんにもその夢を見てもらうため、連結させてもらったわけ」

肇はとっさに「鈴音さんが、自分で見たら良かったんじゃないか」と言いそうになった。しかしあの不愉快な夢を見せるわけにもいかない。肇はぐぬぬという思いを飲みこみ口をとじた。


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