第8話 山田肇くんと笑いのたえない世界

山田肇が以前より鉛のように重く冷え固まるなと感じていた頭痛が、突如、熱病然と身体を支配した。就業する何年か前より、他人と関わるときの息苦しさがあった。言葉がでなくなると、人々の反応は一様になる。


笑いあって支えあっているという職場らしい。その通りかもしれないと肇は静観していた。会員獲得のために、お客を逃がさないために肇は笑うように指導された。そのため、研修を受ける。笑うための練習をする。


人に笑顔になってもらうための手練手管を伝授された。この中でもっとも無愛想なのは、と講師は探して、肇を指差した。


彼が人前に立たされたとき、講師の理不尽なことに少しだけ反論した。まるで私が見せしめのために立たされているのではないかと思ったからだ。それはやめてくれと肇はいった。あなたたちの仕事は私たちの教育であり、平等が求められているはずだと言った。


彼は不明瞭な口答えをする、スピリチュアルに片足をいれたオカルト野郎だと笑われた。ギャグではない、と彼は言った。げんに、自分より愛想のなさそうな人がいるというのがその証拠だといった。

応答は必然的なものだった。笑いである。


鏡の中の自分の笑顔が硬直するようになった。反射で笑うということができなくなるまで、時間はかからなかった。


母が布団をめくる。肇は母を睨み付けた。どうして泣いているのと聞かれる。家族や恋人と死別した夢から目覚めて涙を流したことがある。しかし彼は真夜中を通して泣いていたのだ。どこで何をしていても笑う生活が続いていた。


母に見送られ仕事にいく。閉ざされた玄関を、彼は振り返る。彼女は肇の肩を叩いた。終わったらすぐに帰っておいでと、いつも言う。肇は、母も自分を殺傷しようとする人の一人にカウントした。舌が痺れる思いであった。


音の連なりと身振りに手振りだけが肇と他の人たちとの唯一の関わることができる手段であった。男/年上/上司 と女/年下/上司 が肇の仕事を見ている。

自分は、何の、技術を、得ようと、して、いるのか。彼らに、見られて、何かを言われて、それが、どうした。

いつから彼らのことを理解できなくなったのだろう。彼が自分とそれ以外の接点を肩書きで結びつけているため名前を覚える余力はなかった。時間を使い果たしたら、すぐに家に帰る。道中、彼の一日がはじまる。仕事を終えてアルコールを飲む。脳が世界を見渡せなくなるとようやく肇の世界が見えはじめる。笑顔に溢れる美しい世界であった。


女/同い年/同僚 が社内コンペでよい成績をおさめていると、男/同い年/上司 は肇を責め立てる。君たちはどうなっているのか? 男として女に負けているのは恥ずかしくないのか? と。しかし彼の同僚は、男女×20ほどいるはずであり、少なくとも人類の半分に当てはまりそうな属性に負けることというのはありふれている。しかし、男/同い年/上司 は肇を囃し立てて笑っている。笑おうとしている。

笑いが広がる。


笑いのない、人類のいない土地を目指して、夜中に家から飛び出した。公園のあずまやで目を覚ました。山田肇が精神の病だと診断されるまでそれほど時間がかからなかった。彼が診断書を片手に帰宅するとウイスキーを飲んだ。ウイスキーをチューハイで割った。昼なのに、肇が肇になる。

朝と夜が交代するまま、処方された薬と酒を飲むだけの日が続いた。このまま肇が肇である最良の日々が続けばいいと星に願った。


笑い声がきこえた。彼は笑った。何に笑ったのかといえば、自分が何に笑っているのかわからなかった。皆が笑っているから笑ったのだ。中心には誰がいるのかを、笑い声のなかを掻き分けてみた。そこには肇の姿が見えた。


夕方に目を覚ますと、恋人の鈴音さんが肇を見下ろしていた。自分のベッドの上で寝ていた。診断書をもらってすぐに帰って酒を飲んでいたはずだと、彼は狼狽えた。

鈴音さんと母と妹がいるリビングに向かうと、シチューがおかれていた。彼は一口すすると胃の中に潜り込んだゲリラ部隊が全身で爆撃を仕掛けた。アルコールと胃液とシチューを吐き出した。

「3日、肇くんはお酒と薬しか飲まなかったらしい」

今の自分は肇ではない。冷蔵庫を空けるとアルコールが一つもなかった。冷やされていたペットボトルのジュースを冷蔵庫のなかにぶちまけ、チルドの中にある豚肉を撒き散らし、卵を投げつけた。

脂まみれの手の匂いに、また吐き出してしまう。足腰が麻痺をしはじめた。再び世界が逆立ちをはじめる。皆は誰を笑っているのかと聞いたが答えはなかった。自分を殺傷しようとする人のリストに二人が追加された。


家族は微笑みをくれる。肇からは何もあげるものがなかった。アルコールを禁じられると笑いが不要なものであることに気がつかされた。

「ごめん」と肇はいった。「なにか悪いことしたの」と母が聞いた。笑われるようなことをしたのだ。学生の頃からの続きなのだ。自分が何をしようと笑われる。笑われるために生きているような泥沼のなかで肇が見つけた笑うための妙薬も奪われた。


部屋をノックする音がした。ドア越しでいいからと、鈴音さんの声がした。

「お酒がほしいの」

「うん」

「あげない」

彼はわかりきったことを聞かれ、舌を噛みちぎりそうになった。

「いくつか方法があるけれど、笑う人になりたい?」

「笑う人だったことは、たぶんないからしらない」

「なりたい?」

「わからない」

肇は薬の作用のせいで、身体中が満遍なく浮腫んだような心地であり、取り急ぎ眠りたかった。

「疲れたのかな。笑うっていうのが人間がもちうる暴力の一つで、もう見たくないとので、それが僕にも備わっていて」

鈴音さんは何も言わない。


「笑うとき、自分が人を押さえ込むような。僕の足元には笑われて苦しんだ人たちが血塗れになっている、誰かが傷ついた後を踏みにじっている、気がしてくる」

「じゃあ結論は見えてるじゃない」

鈴音さんは、さも当然のように明るい声で、

「誰も笑ったことのないものを見つけて好きになって笑うしかないでしょ」

そう言い残して、鈴音さんは立ち去っていった。



肇はまだ、それなりの地獄にいた。

くわえて、笑うことを探しはじめないとならなかった。無意味なのではないかと肇は自嘲した。ただ、諦めるにはまだ早い気がしていた。

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