十四 千々の星々

 慶長十八年(一六一三)十二月、ついに全国的な根絶やしのキリシタン禁止令が発せられた。翌慶長十九年(一六一四)九月、勘解由小路在信五十歳の時、ユスト高山右近をはじめとするキリシタン信徒および聖職者の大規模な国外追放が行われた。

 またこの年の七月には、徳川幕府勢の豊臣秀頼勢に対する一度目の遠征、いわゆる大坂冬の陣の発端となった、方広寺鐘銘事件が起き、徳川勢と豊臣勢の対立が表面化した。秀吉が建て秀頼が再建した「京大仏」方広寺の梵鐘に刻まれた銘文のうち、「国家安康・君臣豊楽」という句が、徳川家康の家と康を分断した上、豊臣を君主とし、家康を冒瀆・呪詛するものと見なされたという、いわば言いがかりに近い事件である。

 いよいよ差し迫る危機を覚えた在信は、妻・檜乃の叔父である小倉浄因季雅五十九歳を頼って、妻子を引き連れて因幡八東郡の若桜わかさ宿(現・鳥取県八頭郡若桜町)に落ちのびた。

 十歳になる三男石丸は、外祖父にあたるやまと高彦が引き取り、高彦の生地である大和国朝和の大和おおやまと神社(現・奈良県天理市)にて育てられたのち、長じて高鴨和信たかがもかずのぶと名乗り、大和葛城に鎮座する賀茂朝臣かものあそん氏の氏神・高鴨神社(現・奈良県御所ごせ市)の神主となった。

 在信の勘は当たって、翌慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされ、かつては「東洋のヴェネツィア」と呼ばれて繁栄を極めた堺の街も、戦火で全焼した。

 かくして、賀茂勘解由小路家は歴史の舞台から消えた。勘解由小路家は絶家したものと見なされ、賀茂氏傍流の幸徳井家が賀茂暦道を継承し、元和四年(一六一八)には幸徳井友景三十五歳が陰陽頭に任ぜられた。在信と柳生勝子の間に生まれた、かの悲恋の落とし子である。


 因幡若桜宿は四方を霧の降り立つ山に囲まれた山深き街道筋の宿場町で、材木屋の杉皮の煙がたなびくばかりの静かな里。周辺には平家の落人の伝承が残る集落もあり、また後醍醐天皇が隠岐から京へ戻る折に立ち寄ったという伝承も残る地。隠れ里としてはうってつけの場所である。

 この隠れ里に身を潜めた在信は、「賀茂在信」の名をひねって、また妻・檜乃の父であるやまと高彦の姓から一字を取って、和賀佐茂信わかさしげのぶと名乗り、町の鎮守社・松神大明神(現・若桜神社)の神主となった。そして人知れず山合の星を眺めつつ、西洋天文学を取り入れた新たな日本独自の暦法を研究執筆して、静かな余生を送った。

「在季、見てみよ。今宵の星は素晴らしいぞ」

「まことに、星の綺麗な夜にござりますね、父上」

「月も、千々の星々も、天主様が指の業で据え給うたもの――その主が御心に留め給うとは、人の子とは何者なのであろう……主が顧み給うとは」


 寛永十五年(一六三八)、島原の乱が終結した年。勘解由小路在信改め和賀佐茂信は、因幡若桜宿で人知れず、七十五歳の生涯を終えた。

 いつの日か、誰かが、大和暦を完成させることを望んで――

 そして、主の御国が再びこの日本の地に訪れることを待ち望んで。


 結


・因幡に逃れ、改名し、暦法を執筆という点は架空。

・在信の息子・石丸と和高彦は架空。

・幸徳井友景→「八 本能寺の変と奈良下向」参照。

・「月も、千々の星々も…」――詩編8編4~5。

・在信の没年は架空。

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