十二 常に共に在り

 こうして豊臣秀吉の知遇を得、京の公家界でも重用されて幸福を楽しんだ勘解由小路家であったが、その日々は長く続かなかった。晩年の秀吉は独裁体制を強め、老害を振りまいていった。

 文禄四年(一五九五)七月、秀吉の養子であり関白の地位を嗣いだ豊臣秀次は、突如嫌疑を掛けられて廃嫡された上、切腹を強いられた。それに連座して、武家・公家共に多くの者が粛正あるいは流罪となった。さらに秀吉は、秀次の痕跡までことごとく消し去ろうとするかのように、聚楽第を跡形残らず破壊し尽くした。なんとも狂気じみた沙汰である。

 この時、実際には何も関係なかった天文博士土御門久脩つちみかどひさながまでもがとばっちりを受け、秀吉の詰問を受けた。在昌は、娘婿である久脩の弁護に意を尽くし、助命はされたが、結局無罪放免とはならず、尾張に流刑にされてしまった。

 慶長元年(一五九六)十二月、秀吉の命によって最初の国家的なキリシタン虐殺が起こった。フランシスコ会士とその指導下の信徒を中心とした、京のキリシタン二十六名が、耳たぶを削がれて京中引き回しの上、長崎で見せしめのように処刑された。刑死も追放も免れた京の有力階層のキリシタンは、ユスト高山右近うこんと在昌一家くらいであった。以来在昌一家は、表向きには信仰を捨てたふりを通すことを強いられた。

 慶長三年(一五九八)九月、秀吉は伏見城で没した。しかし、キリシタン迫害は時代の趨勢となっており、在昌一家の肩身狭い境遇は変わらなかった。


 慶長四年(一五九九)八月、在昌は病を患って危篤に陥った。幼き日より折々世話になったひょうきん公家・山科言継ときつぐの跡を嗣いだ山科言経ときつね(一五四三~一六一一)の上奏により、病床の在昌は最後の名誉として従三位じゅさんみに叙せられた。

「いよよ時が満ちた……主よ、汝今こそ、このしもべを安けく去らせ給う」

祖父上おじうえさま、どこへ行ってしまわれるの……?」

 心配そうに付き添う八歳の孫・貴船丸に、在昌は静かに答えた。

「よい子だ、心騒がすでないぞ。天主様は常に我らと共に在り、天主様の御許みもとへ赴く私も、大いなる一つの命の内に抱かれて、今も何時も世々に、常に共に在るのだ」

 かくして在昌は、六十一歳の波乱に満ちた生涯に、静かに幕を下ろした。


 在昌の遺骸は、京都東山の真言宗六波羅蜜寺にて荼毘に付され、堺の同門・大寺おおでら念仏寺に葬られた。自ら希望して付けられた戒名は、常在院萬円天昌居士。「主は常に共に在り」と、「マノエル→萬円」という密かな含意を込めた名である。

 妻・広は、在昌の墓前に付き添い弔いに勤めるべく、堺へ移住した。一時期ほどの勢力は削がれたものの、堺はいまだ自治都市をなしており、ここにおいては細々ながらキリシタン信仰に戻ることができた。


・土御門久脩が流刑にされたことは史実。それに際して在昌が弁護を尽くしたという点は架空。

・在昌一家が慶長元年のキリシタン迫害の際にどうしていたのかは記録なし。

・在昌が従三位に叙されたという点は架空。

・「主よ、汝今こそ、このしもべを…」――ルカによる福音書2章29。

・在昌の荼毘、墓所、戒名なども架空。

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