十一 鞠と在信とゴメス伴天連
瀬戸内海をゆくガレオン船の甲板で、リュート、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、タンバリンなど洋楽器の調べと、楽しげな歌声のハーモニーが鳴り響いた。
Tant que vivray en âge florissant,
Je serviray Amour le Dieu puissant,
En faict, et dictz, en chansons, et accords.
――花咲く日々に生きる限り
私は愛という神に仕える
行いで、言葉で、歌と和音で――
彼らこそ、かの天正遣欧使節団の青年達の一行。天正十年(一五八二)より八年間にわたって、はるばる欧州各国を巡る長旅の末、方広寺大仏殿の地鎮祭が行われたその年・天正十八年(一五九〇)の七月に長崎へ帰国し、その秋、京へ上るべく堺へ向かう航路のことであった。
そしてその中に、美しいソプラノで加わる娘がいた。二十三歳になった在昌の三女・鞠。その年に日本宣教長となったペドロ・ゴメス司祭(一五三五~一六〇〇)の計らいによって、使節団の船に便乗して、父・在昌のいる京へと向かっていた。
年頃も近い使節団の青年達と、鞠はすぐに打ち解け、しばしの愉快な船旅を満喫した。
宣教師にして優れた天文学者でもあるゴメス司祭は、天正十一年(一五八三)に来日し、豊後府内のコレジオにて講義を始めた。メルショル二十九歳と鞠十五歳も師事して、大いに世話になった。そして例の島津軍による府内陥落のため、天正十五年(一五八七)には豊後より天草に逃れ、十九歳になった鞠と再会することとなった。またこれに伴って、豊後のキリシタンと結婚していた在昌の長女・
兄メルショルを亡くして、その魂を弔うべく修道女となり、失意と悲しみに暮れていた鞠にとって、ゴメス司祭、また姉・陶との再会は大きな救いであった。ひたすら神学と修道に打ち込んだ兄メルショルと異なり、鞠は父・在昌譲りで天文学に興味を示し、みるみるうちに師ゴメスも驚くばかりの天文女子に育っていった。
「お父上、お母上、兄上!」
「おお、鞠よ! すっかり大きくなって……よくぞ無事に戻ってきた!」
堺に出迎えに来た在昌親子と再会した鞠は、三人と熱く抱擁を交わした。
「メルショルお兄様は……」
「聞いておる。さぞや辛かったな……」
鞠の目に、涸れていた涙がほとばしった。
ゴメス司祭に天文学の教示を受けたことを話し、贈られた貴重な天文書の数々を渡すと、在昌は大いに喜んだ。そして、在信も強く憧れを抱いた。
「父上、私も天草に留学してみとうござります。父上の分までしかと学んで来とうござります!」
「そうか、それも良かろう。若いうちにしかできぬことだ」
父・在昌の賛同もあって、在信は決心を堅くした。
翌年の天正十九年(一五九一)閏一月、天正遣欧使節団は、京の豊臣秀吉の居館・
そしてその後、二十七歳になった在信は、フロイス、ヴァリニャーノ、伊東マンショらと共に天草への船旅に就いた。妻・檜乃は第一子を身籠もっていたため、泣く泣く京へ残して単身で旅立った。
妻・檜乃は、翌天正二十年(一五九二)、のちに嗣子となる男児・貴船丸を無事出産した。
在信はゴメス司祭に師事し、着々と学識を身に付けていった。文禄二年(一五九三)、ゴメスは西洋天文学の書である『天球論』を著した。
同年、三十歳になった在信は、多くの学識と貴重な書籍を得て京へ戻ってきた。この功績が認められ、正五位下の位階と、
・「Tant que vivray」――クローダン・ド・セルミジ(一四九〇頃~一五六二)作曲。
・鞠の言行は架空。
・天正遣欧使節団が秀吉の前で西洋音楽を演奏したことは記録にあり。
・在信の天草留学は架空。
・在信の妻・檜乃と子・貴船丸は架空。貴船丸の名は、生まれ年の干支から。
・在信の官位授与は架空だが、文禄五年(一五九六)、「正五位下行大蔵大輔博士賀茂朝臣在昌」という署名による文書が残る。本作においては、在昌ではなく実際は在信が書いたものと設定した。世間に名が通っていない嗣子が、「某の息子」というニュアンスで父の名を借りて名乗ることは、この時代よくあった。
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