十 新たな天下人
天正十三年(一五八五)といえば、日本史上銘記すべき年である。この年、織田信長に代わって天下人となった羽柴秀吉(翌年九月、豊臣姓を賜る)が、武家では前代未聞の関白に任ぜられたのだ。
翌天正十四年(一五八六)七月より、秀吉は九州大遠征を開始。メルショルの先見の明どおり、秀吉に対抗して挙兵した薩摩島津勢により、十二月には豊後大友勢が攻め落とされ、一大キリシタン都市として栄えた府内の街は、激しい戦火のうちに灰塵と帰した。
天正十五年(一五八七)四月、秀吉は九ヵ月におよぶ九州遠征を終え、筑前箱崎(現・福岡市)に入った。
九州でキリシタンの実態を目にした秀吉は、その勢力が想像以上に大きいことに危機感を抱いた。スペイン・ポルトガル勢力が日本侵略を狙っており、キリシタン布教はその足掛かりなのではないか――という疑いである。また、奴隷貿易の噂も危機感をさらに強めた。
同年六月、初めての大規模なキリシタン迫害である伴天連追放令が発せられ、京都の南蛮寺や長崎の公館は打ち壊された。しかしこれはあくまで肥大化した勢力を抑制することが目的であり、外国人聖職者やキリシタン大名は制約を受けたものの、日本人平民の信徒を中心とする各々の信仰は容認された。
さて、そのような情勢のもと、京で細々とキリシタン信仰を続けていた在昌一家だが、この追放令で京南蛮寺がなくなって、また以前のように年に数回、復活祭や降誕祭などの折に、堺の南蛮寺に通うばかりとなった。個人の信仰は容認とはいえ、やはりキリシタンに対して国家的規制令が発せられたことは、世間的体面を悪くして、上・中流階級のキリシタンはいっそう肩身の狭い境遇となった。
この堺の街で、在昌一家と特に懇意になった人物がいた。因幡国
天正十六年(一五八八)、二十四歳になった在信は、和高彦と小倉杉の娘で、十八歳になる
天正十八年(一五九〇)四月、豊臣秀吉は京に奈良東大寺をも凌駕する大仏と大伽藍を建立する計画を立てた。「京大仏」方広寺である。
この大仏殿建立に先立つ地鎮祭に際して、在昌五十二歳と在信二十六歳の父子は陰陽師として祭礼出仕した。在昌父子の生涯にとって一世一代の晴舞台であった。これによって在昌父子は豊臣秀吉の知遇を獲得し、在昌は従四位上、在信は従五位下に叙された。
・堺の民の記述は架空。
・大寺念仏寺は、堺市堺区
・大仏殿の地鎮祭に在信も出仕したことは架空。父子の位階授与も架空。
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