六 父・在富の死と嗣子問題
在昌らが豊後府内に到着して半年ほどの後、父在富は
在富の子・在昌は豊後におり不在ということで、嗣子(跡取り息子)問題が生じた。山科
結局、時の安倍氏土御門家当主・土御門有春(一五〇一~一五六九)の四男・福寿丸十三歳(一五五三~一五七五)が土御門家所領の若狭名田庄から帰洛し、
かくして、賀茂勘解由小路家が暦道のみならず天文道をも兼ねざるを得なかった時代から、安倍土御門家が天文道のみならず暦道をも兼ねざるを得ない時代となった。在富が遺した家伝の蔵書はあれど、師子相伝なくしては秘伝の暦道極意を体得することはできない。
十三歳の在高には当然荷が重すぎるため、実際は父・有春と兄・
永禄十一年(一五六八)に三度目の日蝕予測を外した後、このままではお家の恥さらしと思い詰めた父・有春は、心労のあまりに病を得て、翌永禄十二年(一五六九)六月に六十九歳にて没してしまった。かくて、在高の兄・土御門有脩(一五二七~一五七七)が土御門家を嗣いだが、状況は好転しなかった。
病みがちな土御門有脩に代わり、元亀四年(一五七三)、わずか十四歳である息子の
さらに、在高が勘解由小路家を嗣いで十年後の天正三年(一五七五)、在高は二十三歳にしてにわかに病没してしまい、再び賀茂勘解由小路家は断絶の危機を迎えた。
ここに至ってはもはや、土御門家の嗣子であるはずの久脩が、賀茂勘解由小路家を相続するしかない――のちには土御門家を嗣いでもらわなければならない独り子であるから、豊後の在昌が帰洛するまでの間の中継ぎといえども――という、土御門家としては苦渋極まりない決断を迫られた。
かくして天正三年(一五七五)、十六歳の土御門久脩は勘解由小路
しかしそれも束の間、天正五年(一五七七)一月には、やはり心労が祟ったのか、土御門有脩が五十一歳の若さで病没してしまった。唯一の嗣子である久脩改め在綱は、土御門家を嗣がなければならない立場である。かくして十二年のうちに、みたび賀茂勘解由小路家は断絶の危機を迎えた。
残る切り札はただ一つ。キリシタンとなり、伴天連とともに京を出奔し、豊後府内にて西洋天文学を学んでいるというフーテン陰陽師・在昌を、背に腹は代えられずに連れ戻すしかない。
すぐに豊後の在昌のもとに、帰洛要請の手紙が送られた。
「ついにこの時が来たか……今こそ、父上と多くの恩師の御期待に添わねばなるまい」
在昌は手紙を握りしめて、意を堅くした。
「勘解由小路家相続の件承知候、残務が済み次第帰洛する」との返信を承け、十八歳となった勘解由小路在綱は三月、土御門久脩として復姓復名、安倍土御門家の跡を嗣いだ。
「メルショル、
修道士となった長男メルショル
天正五年(一五七七)七月、三十八歳になった在昌はいよいよ十二年ぶりに京の都へ帰還し、賀茂勘解由小路家を相続、従五位下陰陽頭に叙任された。時あたかも織田信長が天下人の礎を着々と築きあげていった天正年間安土時代。西洋天文学と和暦学を熟知統合した、キリシタン陰陽師の誕生である。
・山科言継の子・以継の生母が在富の娘という点は架空。
・勘解由小路在高の生母が在富の娘という点も架空。
・日蝕・月蝕の予測は、実に奈良・平安時代以来、陰陽師の必須課題であった。この一点を見ても、古来の東洋天文学のレベルの高さは驚嘆に値する。
・土御門久脩改め勘解由小路在綱の妻が在昌の娘という点も架空。
・メルショルの和名「瑞星」は架空。東方の三賢者(「メルショル」の由来であるメルキオルはその一人)が、
・陶(架空)が豊後のキリシタンと結婚したという点は当然架空。
・まり(鞠)は架空人物。聖母マリアに因んだ名。
・在昌の官職は架空。但し、天正八年(一五八〇)「おんようのかみあきまさ」という史書の記述あり。位階は史実。
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