四 京都出奔
妻・広との仲は至って睦まじく、永禄元年(一五五八)二十歳の時に長女すえ(
在昌も広も、当然ながらキリシタンであることを隠していた。「異宗門」に対する風当たりは強く、都の仮南蛮寺は二年足らずで撤収となってしまった。が、堺に常設の南蛮寺が建てられたとあっては、毎年復活祭や降誕祭などの折にはミサに通うようになり、実はキリシタンであるという噂が次第に広まってしまった。
これを最も面白く思わなかったのは、在富の妻・木根子である。儒学家・神道家の家柄に生まれた保守的な気質は、いかんともしがたい。その苦言毒舌の矛先は、しばしば在昌へと向けられた。
父・在富は板挟みになり苦悶しつつも、在昌の才知を買って陰陽師としての指南を付けた。しかし学べば学ぶほど、家伝に頼った陰陽道の先行きへの不安と、西洋天文学への憧れが深まるばかりであった。
永禄七年(一五六四)在昌二十六歳の年の冬。ロレンソ了斎一行が堺を離れ、豊後に向け出発するという知らせが入った。伴天連に付いて本格的に西洋天文学を学ぶならば、この機を逃したらまたとない、千載一遇の好機である。
在昌は意を決した。
「在昌殿、名残惜しゅうござりますが……必ずや布教の勅許を得るべく、了斎は戻ってまいりますぞ」
別れを告げる了斎に対して、
「お別れには及びませぬ、了斎殿。私も共にまいりましょう」
「なんと……!?」
「――我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず――ですよ、了斎殿」
堅い決意を告げる在昌。
「但し、此度は広も一緒です」
「ええ。間の悪いことにちょうど身重の時ゆえ、ご迷惑をおかけするやも知れませぬが、どうか何卒ご一緒させてくださりまし」
広も堅い決心を告げた。子を孕んだ身ながら豊後への長旅、並々ならぬ決意ではない。当時としては、命を賭した旅と云っても過言ではない。
トーレス司祭との再会も、何としてでも果たしたかった。
「……承知いたしました。この了斎、身を賭してでもお二人のお供をつかまつる次第にござりますぞ!」
二人の熱意に動かされて、了斎も力強く同行を承諾した。
冬至の近づく、底冷えする夜更けのことであった。
「可奈、良い子にするのだぞ」
まだ数え四歳の次女かな(可奈子)は、五十八歳になる山科
「お任せなされよ! 在昌殿のお子とあらば、我が孫も同然。しかとお守り進ぜようぞ」
勿論、父・在富には無断であった。親の死に目に会えぬであろうことも覚悟の上である。
「在富殿には折を見て、わしから良いように申し伝えておくで、在昌殿は己の信ずるところにのみ忠実にあれば良いのじゃぞ」
「山科殿……度々、本当に有難く存じまする」
「在昌殿、おぬしは本朝の陰陽道の未来を背負っておられる方じゃ。しかと良きものを学びて、立派に華を咲かせるのじゃぞ」
「はい。不肖在昌、しかと心得まして候!」
こうして在昌と広は、数え十歳の長男宇佐丸と七歳の長女すえ(陶子)を連れ、了斎に付いて夜密かに都を発ち、堺から船で豊後目指して旅立った。
「殿、大変ですぞ! 在昌殿が、在昌殿が……!」
明くる朝、在昌夫婦の出奔が知れるや、在富の家人は血相を変えて駆け込んできた。
それに対して、在富は意外にも冷静な様子であった。
「うむ、そうか。いずれこの如き日が来ようとは思っておったわ。あれは籠の中に甘んじる鶯ではない。隼の如き小僧じゃ」
そして、もはや今生の別れとなろうことを察してか、遠い目を庭の外へ遣った。
「在昌よ……どうか達者で、そして立派な陰陽師になりて戻るのじゃぞ」
・すえ(陶子)、かな(可奈子)という人物は架空。名の由来は生まれ年の干支の陰陽五行から。
・かなを山科言継に預けたという点も、当然架空。
・ロレンソ了斎が豊後に下ったのは、実際は永禄八年(一五六五)和暦四月のことである。
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