二 多難の嗣子

 在昌と広の間には、結婚翌年の弘治元年(一五五五)十七歳の時に、晴れて長男が生まれた。山口から豊後に無事逃れたことを感謝して、豊後国なる八幡宮の総本宮・宇佐神宮に因み、宇佐丸と名付けられた。

 しかし、在昌は非嫡出子という出自ゆえに、嗣子(跡取り)としての出世には支障があった。朝廷での官位昇進は、父在富と違ってはかばかしくなかった。

 また、在昌は父に付いて学んでいくうちに、従来の陰陽道に対する行き詰まりをひしひしと感じるようになった。

 当時、みん国ではアラビア天文学を取り入れた精緻な大統暦が用いられていた。元代に造られた暦法で、三百年間も使い続けられているにもかかわらず、経年による誤差は僅かであった。

 一方日本では、平安初期に導入された宣明暦せんみょうれきが八百年近く、相も変わらず使い続けられており、そのままではとても使えた代物ではなくなっていた。賀茂勘解由小路家をはじめ、各地の暦師達は、経験の積み重ねに基づく超絶的な「家伝」によってそれを修正し、なんとか正確な造暦を行っていた。しかし、朝廷陰陽寮の造暦は伊豆三嶋など地方の暦師に対しても引けを取るものとなってしまっていた。陰陽寮の二大柱の一方・天文道の家柄・安倍土御門つちみかど家は所領の若狭国名田庄なたしょうに引きこもったきりであり、暦道の家柄である賀茂勘解由小路家は本来分担すべき天文道をも兼務せざるをえず、このままでは地方暦に対して朝廷の威信が揺らぐという切迫した状況であった。

 にもかかわらず、在富は家伝を墨守するばかりの極めて保守的な姿勢で、在昌がトーレス司祭から授かってきた西洋天文学の書も一顧だにされなかった。在昌が跡を嗣がなかったら、賀茂家の暦道は断絶していたことだろう。在昌一代は良かろうにせよ、秘伝的・師資相伝的な家学に頼ったやり方では、先が見えている。広に付き添って南蛮寺を訪れるたびごとに、在昌はその危機感と、西洋天文学を学び本朝(わが国)の暦学に取り入れたいという思いを強くしていった。


・宇佐丸という名は架空。名の由来は本文中のいわくの他、生まれ年の干支から。卯年→兎→宇佐丸。

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