二 多難の嗣子
在昌と広の間には、結婚翌年の弘治元年(一五五五)十七歳の時に、晴れて長男が生まれた。山口から豊後に無事逃れたことを感謝して、豊後国なる八幡宮の総本宮・宇佐神宮に因み、宇佐丸と名付けられた。
しかし、在昌は非嫡出子という出自ゆえに、嗣子(跡取り)としての出世には支障があった。朝廷での官位昇進は、父在富と違ってはかばかしくなかった。
また、在昌は父に付いて学んでいくうちに、従来の陰陽道に対する行き詰まりをひしひしと感じるようになった。
当時、
一方日本では、平安初期に導入された
にもかかわらず、在富は家伝を墨守するばかりの極めて保守的な姿勢で、在昌がトーレス司祭から授かってきた西洋天文学の書も一顧だにされなかった。在昌が跡を嗣がなかったら、賀茂家の暦道は断絶していたことだろう。在昌一代は良かろうにせよ、秘伝的・師資相伝的な家学に頼ったやり方では、先が見えている。広に付き添って南蛮寺を訪れるたびごとに、在昌はその危機感と、西洋天文学を学び本朝(わが国)の暦学に取り入れたいという思いを強くしていった。
・宇佐丸という名は架空。名の由来は本文中のいわくの他、生まれ年の干支から。卯年→兎→宇佐丸。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます