七 伴天連再来

 さて、物語の時間軸は、主人公とヒロインの父母の慣れ初めから生誕、そして養育歴までに至るエピソードを遡り、ようやく冒頭第一章に追いついた。

 インドのゴアに置かれた東洋大司教座から、「黄金の国」として西洋人航海者の夢の的であった「ジパング」日本への宣教を任ぜられたフランシスコ・ザビエルは、天文十八年(一五四九)・ユリウス暦八月十五日、薩摩(鹿児島)に来着した。一行の中には、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら三人の日本人も共にいた。戦国時代にあって、遠くインドにまで日本人が来航していたことは、当時の日本の海外私貿易がいかに盛んであったかを偲ばせる。

 一行は薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、一旦は宣教の許可を得たが、仏僧の助言を聞き入れた貴久が禁教に傾いてしまったため、京に上ることを目指して薩摩を去った。一行は肥前国(佐賀)の平戸に入り、宣教活動を行った。

 そして天文十九年(一五五〇)和暦十月上旬、山口に至り、無許可で宣教活動を行った。これが冒頭第一章「伴天連来訪」の物語の背景である。

 ザビエルは大名・大内義隆にも謁見した。が、珍しい異国の文物宝物を目にすることと「献上」されることを楽しみにしていた義隆の期待と裏腹に、一行は珍奇とはいえ質素な身なりで献上品の一つもないという結果が失望と無礼に値するという不満を抱かせ、加えてこともあろうか、「男色を罪とするキリスト教の教え」が、「豪傑」義隆の怒りを大いに買ってしまったのだった。さすがの豪傑らしい逸話である。

 一行は和暦十月二十九日に山口を発ち、目的の京都へと向かった。途中、堺の豪商・日比屋了珪りょうけいの知遇を得て、その支援により、翌十一月、念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐りゅうさの歓待を受けた。そして全国での宣教の許可を得るため、後奈良天皇および室町将軍への拝謁を請願。しかしこのたびもまた、長旅で身なりは薄汚れ、献上の品もなかったため、また政情も不安定で将軍は京に不在、その念願は叶わなかった。ザビエルは失意のうちに、翌天文二十年(一五五一)二月、山口を経て、平戸に戻っていった。二度目の山口来訪である。

 ザビエルは、平戸に置き残していた宝物の数々を携えて三度目の山口来訪を行い、二月下旬、大内義隆に再謁見の機会を得た。これまでの苦い経験に学び、日本の風習では貴人との会見時には威儀を正した服装と献上品が重視されることを知ったザビエルは、本来質素な黒い長衣の修道服を着るべきイエズス会修道士としての会則を敢えて破り、ポルトガル来航船の豪商から借りたルネサンス貴族のような最上等の洋服で一行を装い、天皇に捧呈しようと用意していたポルトガル王国インド総督とゴア大司教の親書の他、小銃、置時計、眼鏡、洋書、洋画など珍しい文物を義隆に献上した。

 これに喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、当時廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた。これが日本最初の常設の教会堂である。ザビエルはこの大道寺で熱心に説教を行った。

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