五 領主の落とし子

 「英雄、色を好む」という諺の通り、大内義隆は女性関係にも豪傑であった。史書に名が残る者だけでも、正室二人、側室二人がいた。


 在富が山口に下向した時の少し前には、正五位上・武家伝奏という地位にあった公家・広橋兼秀三十一歳(一五〇六~一五六七)と、その長女・光子十四歳が山口に下向していた。光子はそのまま山口に置かれ、大内義隆の大叔母が晩年を過ごした広徳院という尼寺に入り、庶務係の稚児ちご・「喝食かつじき」という任に着いた。

 それから二年後、ちょうど在富が京都へ帰っていった頃。在俗の庶務とはいえ、仮にも寺院に仕える者、しかもまだうら若き数え十六歳の少女――それがこともあろうか、ふとしたことから大名大内義隆の目に留まり、見初められてしまったのだ。

 在富と佐井子との切ない恋とは違い、義隆の「御見初め」は手が早く、いささか強引であった。ある時、親族の年忌法要に訪れた義隆は、寺の隅にいた光子が目に留まるや一目惚れといった有り様。のちには正式に側室として迎え入れられたものの、最初の頃はたびたび使いをやって連れ出して、光子は寺の者たちの後ろ指差しを買った。

 ほどなくして、光子は子を孕んだ。未だ正式な側室となる前のことである。そして宇治丸の産まれと同じ年の暮れ、こちらもまた公に祝われることもなく密やかに、数え十七歳の若さで光子は女児を産んだ。

 これが男児であったなら処遇もまた違っただろうが、嫡出でない女児というのは惨めなものである。父・義隆は産まれたのが女児と伝え聞くや祝いに訪れもせず、一つ山口の街にいながら、生涯ただの一度も間近に顔を合わすことはなかった。

 ここに至って光子はようやく正式に側室として迎え入れられ、「広徳院御新造」と呼ばれた。女児は母光子の住地・広徳院と実家・広橋家から一字を取って「広」と名付けられ、光子の正式な側室入りと引き換えに、高嶺太神宮に仕える一禰宜ねぎ(神職)の家に預けられた。


・広徳院御新造は実在。光子という名と年齢は架空。彼女の長女「広」も架空。

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