四 落人の落とし子

 絶望の淵からのしばし貴重な安息――こんな時に、否、こんな時だからこそ、であろう。在富は山口滞在中、一つの「気の緩み」を生んでしまった。


 「西の都」山口には多くの公家が落ち延びて暮らしていたが、大内義隆の「後宮」もまた、公家の娘揃いであった。正室は、天文十五年(一五四六)に内大臣まで進んだ中堅公卿・万里小路までのこうじ秀房ひでふさ(一四九二~一五六三)の娘・貞子。在富山口来訪の時には二十六歳。名門の出とあって、理知的で気丈な賢婦人であった。

 その貞子に仕える侍女「上臈じょうろう」という地位にあった者で、朝廷の官人・大宮伊治これはる(一四九六~一五五一)の娘・佐井子(おさい)という若い女がいた。大宮家は、朝廷の諸記録を司り、算博士さんはかせという地位を世襲する家柄。「公家」とは厳密には「堂上家とうしょうけ」という家格分類の者を指し、それ未満の家格で朝廷に仕える者は「官人」、家柄としては「地下家じげけ」と呼ばれる。大宮家は、その地下家という分類の中では筆頭格とはいえ、大雑把に云ってしまえば最下級公家である。


 最初の時には数え十七歳のうら若き乙女であった大宮佐井子と、父子ほどの歳の差である四十七歳の在富は、山口での二年の間に、こともあろうか行きずりの恋仲になってしまったのだ。

 京からの一行来訪歓迎の宴席で佐井子と出会った在富は、彼女の家柄を知って関心を持ち、言葉を交わした。他の公家柄の者と違って、成り上がり公卿である自分に対しても高飛車ではなく、誰に対しても分け隔てなく慎ましやかに振る舞う佐井子に、好感と娘のような親近感を覚えた。

 同じ才女でも、気性が強く気位も高い正室貞子と違い、佐井子は利発ながら謙虚で温厚な乙女だった。暦道と算学という近しい家学からも意気投合し、学問の話の文を交わし、歌文を交わし、想いを交わし――それは絶望の淵にあった在富にとって、この上ない安らぎであった――そしてやがて、相通じ合う仲となった。

 まるで源氏物語のような話だが、現実問題は美談でも笑い事でもない。恋相手は、世話になっている大名の奥方の侍女である。当然秘め事であったが、運命なるかな――二年の時を経て、在富が間もなく京へ戻るというその時、佐井子は身籠ってしまったのだ。

 二人は、別れを惜しんで、しかし運命を受け入れて、静かに涙を呑んだ。そして別れ際、はらの子がもし女児なら自分の別れ形見に、もし男児として産まれ、無事一人前に育ったなら、これを携えて京へ遣るように――と、自筆の暦道の初歩指南書に、六壬式占りくじんしきせんという占いのための式盤を模した手のひらに収まるほどの銅盤を添えて、佐井子に託した。

 時に在富四十九歳、佐井子十九歳。在富は、二歳下の同輩公卿で前年周防に下向した持明院基規じみょういんもとのり(一四九二~一五五一)と共立って京都へ帰った。


 年が明けた天文八年(一五三九)一月末、凍てつく梅の枝にもつぼみがほころび始める頃。山口の街の片隅で、公に祝われることもなく密やかに、のちに賀茂在昌となる男児は産まれた。京都の岩清水八幡宮になぞらえて、先代大内義興の代に大改修し立派な社殿が建立された「今八幡宮」。男児はその社家に預けられた。

 創建当初の祭神・宇治皇子うじのみこから昔は宇治社うじのやしろと呼ばれていたことに因み、男児は宇治丸と名付けられた。あるいはもう一つには、悲恋の別れを源氏物語の「宇治十帖」になぞらえた母佐井子の密かな想いもあったのかも知れない。


・おさいの方は実在。佐井子という字と年齢は架空。在富との恋も架空。

・在昌の幼名「宇治丸」は架空。

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