三 父・在富の山口下向

 宇治丸と広の出自、それは両者とも一筋縄にはいかない難儀なものであった。


 天文五年(一五三六)七月、京の都は未曾有の戦乱と大火の阿鼻叫喚に包まれた。比叡山延暦寺の動員した約六万人もの僧兵と武士が京都市中に来襲、日蓮法華宗の拠点をことごとく焼き払った。延暦寺勢力が放った火は大火を招き、京都は下京しもぎょうの全域、および上京かみぎょうの三分の一ほどを焼失。その災禍はかの応仁の乱よりも大きく、京都史上最凶の戦禍と云われる、「天文法華てんぶんほっけの乱」である。

 上京勘解由小路(現・下立売通しもたちうりどおり)にあった勘解由小路在富の邸宅も飛び火を受け、屋敷の半分ほどを焼失、命からがら妻子と家伝の暦道の書物を守りきった。在富四十七歳の年であった。

 この時点で生存し、のちに成人まで育った子女は、日枝子ひえこ十二歳と阿多子あたこ九歳という二人の娘のみ。

 乱世の中での激務と困窮とで元来子宝に恵まれなかった在富、先に生まれた子はみな天文法華の乱以前に夭折してしまい、自らはこの歳で、唯一の妻も今や四十二歳である。もとい、半壊した邸宅と焼け出された家族の回復が当面の死活問題であり、とてものこと側室など迎えるどころの騒ぎではない。自らの血を引く跡取り息子の望みはほとんど潰えて、ただでさえ災難に目眩する在富の絶望たるや計り知れない。


 妻方の親戚が社家(神主の家柄)である京都東山の吉田神社に妻子を預け、ひとまずの収拾をつけた在富は、西国の雄・大内義隆(一五〇七~一五五一)を頼り、周防山口に下向した。周防国には勘解由小路家の貴重な財源である所領があり、先代・大内義興の代から大内氏と勘解由小路家は密接な関係があったのだ。すなわち、所領を護持してもらう代わりに京都での地位を取り次ぐという、持ちつ持たれつの関係である。新当主である大内義隆への顔繋ぎ、そして財政再建のための所領護持確認が、山口行きの主目的である。

 大内義隆は八年前の享禄元年(一五二八)、父・義興の没を受け二十二歳で家督相続し、当時三十一歳の若き武将。先代の大内義興は、永正五年(一五〇八)在富十九歳の頃に、山口に逃げてきた前将軍・足利義稙よしたねを奉じて上洛し、十年間京都と近畿に滞在して、「管領代」として幕政を執行した。その間、伊勢神宮に参拝して強い感銘を受け、山口に戻ると天皇の勅許を得て伊勢神宮の分霊を勧請かんじょう、建物まで忠実に伊勢を再現した「西の伊勢」と称される高嶺こうのみね太神宮(現・山口大神宮)を建立したほどの神道びいきであった。

 大内義隆もまた、父・義興の薫陶を受けて都振りびいき・神道びいきであった。この時、二十一歳の若さながら「神祇管領長上」という神道界の頭領的地位にあった吉田神社祠官・吉田兼右かねみぎ(一五一六~一五七三)も、大内義隆の招きによって在富とともに山口に赴き、父義興の遺産である高嶺太神宮と今八幡宮で、当時神道の一大流派となっていた「吉田神道」の流儀を指南した。

 この吉田兼右、歳は離れているが、実は在富の妻の弟にあたる姻戚である。在富の正室・木根子きねこおよび吉田兼右の父は、国学・漢学の大家・清原宣賢きよはらののぶかた(一四七五~一五五〇)。その父(兼右と木根子にとっては父方祖父)は、仏教・儒教・陰陽道などの要素を集大成した吉田神道の創始者・吉田兼倶かねとも(一四三五~一五一一)、という碩学の家柄である。在富の山口行きは、この義弟吉田兼右の同伴という意義もあった。

 在富は、山口に二年間滞在したのち京都へ戻った。乱世にあって、ことに在富にとっては絶望のさなかにあって、「西の都」での滞在は貴重なしばしの安息の時であった。


・天文法華の乱で在富邸が焼かれたという点は架空。

・在富の娘二人は架空。名の由来は生まれ年の干支から。詳細は第一部末コラム。

・在富が山口に下向したという点、吉田兼右がそれに同行したという点も架空。

・在富妻の名と出自も架空。名の由来は生まれ年の干支から。詳細は第一部末コラム。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る