6-8 ショパンの子守歌

 翌々日から新学期が始まり、真智子は桐朋短大でのスケジュールに追われていった。アンサンブルの自主練や個人レッスンのこともあったので、桐朋短大へは家から通い、ピアノが届く日には必ず新居のマンションを訪ねると慎一と約束をし、それまでの準備は慎一にまかせた。一方、慎一も新学期を迎えたが、芸大での授業はそれほど立て込んでなく、個人レッスンの方も引っ越しの事情を話してスケジュールに余裕を持たせ、先に新居での生活を始めていた。そして予定通り、グランドピアノとベッドが運び込まれ設置されると、真智子を迎えるばかりの状態で、慎一はさっそくピアノの前に向かい、手慣らしの練習を始めていた。


 新居にピアノが届いた日曜日の朝、真智子はいつも通り朝食を採り荷物を整えると居間で寛いていた父と母と弟に向かって挨拶した。

「お父さん、お母さん、博、そろそろ出かけるね」

「まだ、学生なんだから、学業をおろそかにするんじゃないぞ。まあ、慎一君がついてるなら大丈夫だと思うけど」

「慎一さんの迷惑にならないように、何かあったら連絡しなさいね」

「演奏会もあるから、また、連絡するよ。私の演奏、また聴きにきてね。じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」

孝と良子と博は玄関先まで出て、真智子を見送った。


いざ、実家を離れるとなると寂しい気持ちもよぎったが、いつでも帰ってこれる距離なのだからと、自分の気持ちを諌め、慎一が暮らしはじめたマンションへと向かった。


 真智子が慌ただしく日々を過ごすうち木々の枝葉は衣替えし、街並みはすっかり緑に包まれ、頬を撫でる風は少しずつ初夏へと向かう空気を含みはじめていた。

―このところ、ほんとうに慌ただしかったな―。

光が丘駅へと向かう道を歩きながら、真智子はふっと空を見上げた。

―そういえば、修司やまどかはどうしてるかな?新学期を迎えて忙しくしてるかな?

そう思いながら、真智子は今こうして慎一と一緒に暮らすマンションに向かっていることがどこか不思議なようなふんわりとした気分に包まれていた。


 真智子がマンションに着き玄関のチャイムを鳴らすと、慎一がすぐにドアを開けて真智子を迎えた。

「ピアノ、もう、届いているよ。さっそく弾いてみる?」

中に入るとすぐの部屋にグランドピアノが設置され、光を浴びて輝いて真智子の目に映った。

「良かったね」

そう言って、部屋の中に入った真智子だったが、突然ふっと眩暈がしてそこで蹲った。

「真智子、大丈夫?」

真智子の異変に気付いた慎一は慌てて真智子のところに駆け寄り、真智子の額に手をあてた。

「熱があるみたいだから、休んだ方がいいね。ごめん。このところ無理させたから」

慎一は真智子をゆっくりとベッドまで連れて行った。

「ごめん。せっかく、ふたりでの新生活が始まる日だったのにちょっと疲れが出ちゃったみたい」

「いろいろ慌ただしかったからね。僕が看病するから今日はゆっくり休んでね」

「風邪、ひいちゃったかもしれないから、明日、病院へ行くね。うつすといけないから慎一も無理しないで」

「じゃあ、風邪薬飲んで、ゆっくり休んで」

慎一は風邪薬とコップ一杯の水を持ってくると、ベッドに座り込んでる真智子に渡した。

「じゃあ、今日はお言葉に甘えて休むね」

「僕は真智子がゆっくり休めるような曲を弾いてるね」

そう言うと、慎一はピアノに向かい、ショパンの子守歌を弾き始めた。真智子は風邪薬を飲むと寝衣に着替えベッドに横になった。ぼんやりとした思考の中で慎一が奏でる繊細で震えるようなピアノの旋律に包まれながら、真智子の心は夢心地の気分に包まれていった。


※ショパン『子守歌 変二長調 Op.57』


 

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