5-2 奈良へ向かう準備

「お母さん、忙しい時間にごめんね。ちょっと話したいことがあるんだけどいいかな……」

仕事に出掛ける父、孝と部活に出掛ける高校生の弟、博を玄関まで送りに行った後、リビングに戻ってきた母、良子に真智子は言った。

「ええ、いいわよ。改まって何かしら?」

良子は食べかけの朝食が置いてある食卓の前に座ると言った。

「あのね、受験の時、ピアノのレッスンでお世話になった高校時代の友人、真部慎一君が病気で倒れて。今、奈良にいるんだけど、お見舞いに行っていいかな?」

「真部慎一君って、芸大に行った彼よね?」

「うん……」

「真智子、そういえば、そのうち家に連れてきたいって言ってなかったっけ?」

「……そんなこと、言ったっけ?」

「言ってたわ。だけど、真智子も忙しくなって、その真部慎一君も夏には留学したのよね。それで、日本に帰ってきてたのね」

「うん……、私の知らないうちにね。だけど病気で奈良の病院に入院してたんだって」

「まあ、そうだったの……。大変だったのね」

「それで、奈良にお見舞いに行っていい?」


―良子は少し考え込んだ後、言った。

「真智子ももうすぐ二十歳で大人だからよく考えてのことだと思うし、行ってもいいけど、大学の方は大丈夫なの?それに奈良まで女の子が一人で行くってちょっとただならない感じだけど、向こうの親御さんは?何か言ってこないかしら?」

「それは、わからないけど……。慎一のお母さまは慎一が中学の頃に亡くなられて、お父さましかいないって慎一からは聞いてるわ。大学の方は春休みで練習はあるけど、なんとか都合をつけようと思ってる」

「そう。とにかく、向こうに無事に着いたら、必ず連絡入れること」

「ありがとう。行っていいのね」

「……真智子にとって大切な人なのよね」

良子は真智子の目をじっと見つめて、念を押すように言った。

「うん……」

良子に心の中までじっと見つめられているような感覚に陥り、真智子は頷いた後、それ以上何も言えず、俯き加減に黙った。

「……それに受験の時にお世話になってるんだから、しかたないわね。真智子のこと信じて許すけど、女の子なんだし、向こうのお父さまにくれぐれも失礼のないように。それから、何かあったら、必ず連絡入れなさいね」

「はい、お母さん……。それで、泊りがけになると思うけど、お父さんにはお母さんから言っておいてくれるかな?」

「しかたないわ。気をつけて行ってらっしゃいね。じゃあ、お母さんももうすぐ仕事に出掛けないといけないからね」


 母、良子は真智子が思っていたよりあっさりと許してくれた。つくづく物わかりがいい母に真智子は頭が下がる一方だった。


 良子が仕事に出かけた後、真智子は桐朋短大で親しくなった友人、長井絵梨に春休み中の練習をしばらく休むことを連絡しようとした時に修司からメッセージが届いているのに気付いた。


―今朝、連絡があったんだけど、慎一、病気で入院して大変だったんだってな―。


 真智子は慎一からの連絡が途絶えて心配していたことを修司にそれとなく相談していた。慎一は真智子に連絡した後、修司にも連絡していたのだった。


―うん。私も今朝、慎一から連絡をもらったの。びっくりしたけど、連絡が取れて少しほっとしたよ。久しぶりに慎一の声も聞けたし。それで、これからもうすぐ慎一に会いに奈良に向かうの―。


―えっ、ここから奈良までけっこう遠いけど、真智子の親、許してくれた?


―まあね。慎一のことはそれとなく話してあったし、母は許してくれた。それにお見舞いに行くんだからね―。


―そっか……、頑張れ!いよいよ真智子が俺から遠ざかっていく気がするけど、ちゃんとお見舞いしてこいよ!


―修司こそサッカーで大活躍していろいろなところに出掛けてるでしょ。これからも頑張ってね―


 そんなことを修司とやりとりした後、真智子は長井絵梨へ急いで、アンサンブルの練習をしばらく休む旨のメッセージを送り、その後、慎一へ電話をかけた。


「もしもし、慎一。奈良に行けることになったけど、そっちは大丈夫かな?」

「えっ、もう、来れることになったの?」

「ちょうど、春休みだし、善は急げって言うでしょ。慎一が四月から芸大に通えるようにするためにも早い方がいいと思うし、慎一の身体のことも心配だからね。お見舞いってことで母からは了解もらえたところだけど、そちらのお父さまはびっくりされないかしら?」

「父は今、忙しいからね……。家にいつ戻ってくるかわからないけど、家のことは昔からのお手伝いさんの美津さんがなんでもしてくれるんだ。美津さんには真智子のことは少し話してあるからね。きっと喜ぶと思うよ。真智子が泊まる部屋もあるから遠慮なく泊まっていって。体調のことがあるから、あまり観光案内はできないと思うけど宿は保証するよ」

「私も春休みの課題を抱えているから、そちらに長くいれるわけではないけど、慎一の身体のことが心配だし、久しぶりにゆっくり話せれば、それでいいんだけどね」

「とにかくさ、真智子に会えるのを楽しみにここで待ってるよ」

「わかった。じゃあ、またあとでね」


真智子は自分の部屋に入ると旅行鞄を出して準備をはじめた。もうすぐ慎一に会えると思うと真智子の胸は自ずと高鳴った。


 真智子は出かける準備を済ませると早々に家を出た。奈良への旅行は高二のときの修学旅行以来だった。思い返せば、あの頃はまだ慎一とは出会ってなくて修司と付き合っていた―。そう思うとこうして今、奈良に向かおうとしている自分がなんだか不思議で胸の奥がこそばゆいような気分に真智子は包まれていた。

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