4-4 留学に向けて

 一方、叔父の家に帰った慎一は、父、直人にリスト音楽院への留学が決まったことを電話で報告した。直人はそのことをとても喜んでくれて、留学の準備についてもすべて慎一に任せると言ってくれた。父が喜んでくれたことで慎一は内心、ほっとした。父とは母が亡くなってから心の距離が離れる一方だったが、芸大に受かったのを機に慎一のことを信頼しているといったようなことを言ってくれるようになり、慎一も父は父なりに慎一のことを考えてくれていると思えるようになり、心のわだかまりも少しずつ解消してきたところだった。そして、今回も留学が決まったことを喜んでくれたことで、父に認められたい慎一の意識は一層強くなった。

―留学が決まったことは心の中の母ももちろん喜んでくれている。そして父も喜んでくれた。こんな風に思えるようになったのも真智子が僕の気持ちを支えてくれているからにちがいない。これからもこの気持ちを大事に頑張ろう―。

慎一は留学が決まった喜びを胸の奥で噛み締めながら、そう心に誓った。


 翌日から真智子は実技試験に向けて猛練習し、個人レッスンの課題曲の『ベルガマスク組曲』の4曲、『プレリュード』、『メヌエット』、『月の光』、『パスピエ』をよどみなく綺麗に仕上げ、実技試験に合格した。履修科目の試験も一通り終えた。そして、夏休み前の個人レッスンでは担当のみどり先生から次からの課題曲について伝えられた。


「高木さんのこの前の『ベルガマスク組曲』、心がこもっていて素晴らしかった。それで、次の課題曲だけど、ドビュッシーの『ピアノのために』はどうかしら?けっこう難しい曲だけど、高木さんは弾いたことある?」

「いえ、『ピアノのために』はまだ……。でも、友人が『プレリュード』を聞かせてくれたことがあって……」

「えっ、ご友人って誰かしら?」

「高校の同級生です。今、芸大に通ってます」

「もしかして、真部慎一さん?」

「えっ、真部君のこと、みどり先生は知ってるんですか?」

「真部慎一さんのドビュッシーの『ピアノのために、プレリュード』、私もコンクールで聞いたことがあるのよ。確か、五年前ぐらいだったかしら?まだ、中学生の真部さんの演奏にとても感動したわ。コンクールを聴きに行った友人たちの間でも話題になったんだけど、その後、見かけなくなって。でも最近、芸大に入学したって友人たちから聞いていたの」

「そうだったんですね」

「ええ、芸大の友人も真部さんのことは有望な青年だって言ってて……」

「その時のコンクールでは真部君、入賞したんですよね!」

「ええ、とても迫力があって、素晴らしい演奏だったわ。高木さんの『ピアノのために』も楽しみにしてるわね。せっかくだから、『プレリュード』、『サラバンド』、『トッカータ』と完成させましょう。高木さんの持ち味を生かせるように頑張ってね。それからもう一曲、高木さんは何か挑戦したい曲があるかしら?」

「はい、シューマンの『幻想小曲集 夕べに』を是非、完成させたいです」

「ロベルト・シューマンの曲ね。そのうち、クララ・シューマンの曲にも挑戦してみましょう。ドビュッシーとシューマンが弾きこなせるようになれば、演奏会にも参加できるようになるし、この調子で高木さんのレパートリーを増やしてね。では、夏休み明けのレッスンを楽しみにしています」

「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」


 その後、真智子のアンサンブルのグループも発表され、一緒に演奏するメンバーとの顔合わせをし、練習や演奏会、交流会などのスケジュール表も配られ、夏休み中はできる範囲で参加するよう、伝えられた。


真智子の試験中、慎一はリスト音楽院への留学の際の諸手続きや渡航の際のパスポート、ハンガリー入国のビザの準備などをする傍ら、学内でのピアノのレッスンに励んだ。そして夏休みに入る頃には、八月に入ってすぐの出発便の飛行機の航空券を予約し、そのことを真智子に伝えた。慎一の出発日は土曜日で、真智子のアンサンブルの合同練習は入っていなかったし、交流会も特に予定になかった。ちょうどオープンキャンパスが開催される頃で、まだ一年生の真智子は特に割り当てもなかった。飛行機の出発は午後だったので、午前中に一緒に空港まで行って、軽く食事をしようということになり、出発日の朝の九時に練馬駅で待ち合わせの約束をした。そして、真智子も慎一も夏休みに入ったので、慎一がブタベストへ出発するまでの空いている日にゴールデンウイーク中に利用したレンタルスタジオで一緒に練習しようということになった。真智子も次の課題曲が決まったところだったし、慎一の演奏も久しぶりに聞きたかったし、なによりも久しぶりにふたりでピアノを練習できることが嬉しかった。待ち合わせ場所の練馬駅も一緒に乗る電車も何気ない会話もふたりの思い出として慎一と真智子のそれぞれの心に刻みつけられていく―。受験中に一緒にピアノを練習する日々の中で心の絆を深めた慎一と真智子だったが、それぞれの大学が変わっても、お互いへの思いは変わらず強かったし、むしろ、会った時の新鮮味が増したことで、音楽を演奏する仲間同士というだけでなく、恋人同士であることを強く意識するようにもなっていた。


「慎一が留学したら。ほんとうにしばらく会えなくなるね」

ふたりきりのレンタルスタジオで真智子はぽつりと言った。ピアノの前で幾分項垂れて座っていた真智子を慎一は後ろからそっと抱き締めた。

「真智子のもとに必ず帰ってくるから……」

そう言うと、慎一は真智子の唇にそっと唇を重ねた。

「必ず帰ってくるからね」

慎一は真智子をじっと見つめて念を押すと真智子を再び抱き締めた。

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