2-5 父の来訪

 その日、真智子と練馬駅で別れた慎一が叔父の家に帰ると、慎一の父、真部直人が慎一の帰りを今か今かと待ちかまえていた。

「少し帰りが遅くないか?」

玄関先で慎一を迎えた直人は待ちくたびれた様子で言った。

「前触れもなく、突然来て何を言われるかと思ったら……。人の家でも相変わらずだね、父さんは」

「弟の家だし、生活費や学費は私が払っているんだから、お前にどうこう言われる筋合いはない」

―久しぶりに会っても、こんな風にしか話ができないんだもんな―。

慎一は少し押し黙ったが、思い直したように言った。

「帰りが遅くなったのはピアノの練習をしていたからだよ。ところで何か用事があるから、来たんだろ?」

「ああ、以前も話したけど、ドイツ留学の話を念押しに来た。是非、お前を迎え入れたいという話があるから……」

「芸大に進学するのが母さんと僕の昔からの夢だということはわかってるよね」

「芸大受験のことは許したが、受かるかどうかわからないし、仮に受かっても芸大に籍を置きながら留学もできるはずだ。だから、私としてはどちらにしてもこの話は受けて欲しいんだよ。仕事の取引にも影響するから」

「結局いつも、父さんはそうやって母さんと僕の心の絆のピアノまで仕事に利用して、僕の夢を壊そうとするんだ」

「そんなことはない。お前にとっても良い話だ」

「どうかな」

そう呟きながら、慎一は真智子のことを考えていた。

「とにかく、お前はまだ半人前だし、プロとして一人前になるには修行が必要だし、資金のことだってあるんだから、よく肝に銘じておくんだな」

慎一は音楽の道を追及していくためにも今はまだ父の意向を受け入れるしかないのがくやしかった。真智子にもこのことをそのうち話さなければいけないと思うと胸苦しさに覆われていくような心地がして悲しかった。


 その日の夜、慎一の父、真部直人は慎一の下宿先、叔父、真部幸人の家に泊まった。慎一は父がいずれ来ることは予測していたが、実際、来て顔を合わせると何とも言えない居心地の悪さを内心、拭えなかった。父との関係は母、由紀子が亡くなって、一年経った一周忌の日から悪くなる一方だった―。


―母が生きていた頃は父は仕事のことで家を空けることは多かったが、それでも生まれつきの心臓病を抱えていた母を父なりに気遣っていたし、家族三人仲良く暮らしていた。父は地元、奈良の資産家だったから、生活にも困らなかったし、病弱な母のために家政婦までつけていた。ただ、慎一が子どもだった頃は父は慎一が由紀子の指導の下、ピアノに熱心なことを喜んでいたが、慎一が中学にあがる頃からピアノを主体とした音楽の道ではなく、勉学を主体としたもっと別の道に進むことを勧めるようになった。そのことについて、慎一は勉学も頑張るからピアノも続けていきたいと父にはっきり告げ、また、母も慎一を全面的に応援していきたい意向だったため、その当時は父はふたりの気持ちを尊重し、音楽の道へ進むことを許してくれた。しかし、母、由紀子の突然の死により、慎一も父、直人もショックのどん底に落ち、それぞれの悲しみを抱えながらもそこから這い上がるために慎一はピアノに打ち込み、父は仕事に打ち込み、ふたりの心の距離は少しずつ離れていった。そして、母の一周忌の日、法事の会場で父から最近付き合っている人がいると母より少し若い感じの清楚な雰囲気の女性を紹介された時、慎一は父に対してすっかり心を閉ざしたのだった―。父の仕事仲間だというその女性が挨拶をしてきても慎一は返事をすることができず、ただ、黙ってその場で俯いていた―。父が許せないというより、ただ、受け入れられないという感情でその場にいたたまれないような思いで一杯だった。

―なぜ、母の一周忌の会場に平気で連れてこれるんだろう―?

そんな思いが渦巻くばかりだった―。


 以来、慎一は父に対する不信感を募らせていった。それでも子どもの頃から母と一緒に抱いていた夢、芸大進学は叶えたかったので、表面上は父との関係を取り繕うような日々を送っていたが、いよいよ受験生になり、その思いを叶えるためにも、東京で暮らしていた叔父に頼み込み、下宿させてもらい、近くの高校に転校したのだった。そして、音楽室で真智子と出会ったことで、慎一はそれまで抱えてきた孤独感が少しずつ癒され、母との思い出も優しく甦るようになった。―そんな矢先に父が訪れ、むしゃくしゃするような思いが再び湧き上がってくるのを慎一は抑えることができなかった。


―明日はいつも通り音楽室で真智子と会えるだろうか―?

布団の中で目を瞑りながら、慎一は思った。その夜、慎一は目を瞑っていても意識があってほとんど眠れなかった。

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