2-6 グリーグの『ノクターン』
翌朝、慎一の父、真部直人は出かける前に留学のことを慎一に念を押した。とにかく、父は芸大受験については許しているので、その合否によって、変わることもあるが、いずれにしても留学のことは意識の範疇に入れなければならないし、留学すれば真智子とは離れ離れになってしまうということになる。
―やっぱり早めに伝えた方がいいのかな……。伝えたら、真智子はどう、思うだろうか……。動揺するだろうか……。真智子の受験に悪影響を与えないように受験の後に伝えるべきか―。
父の顔色を窺いながら、慎一はそんなことを考えていた。
学校の授業をどこか上の空で受け、放課後はいつも通り、音楽室に向かう途中の渡り廊下を慎一が歩いていると、後ろから小走りに真智子が近づき、慎一の隣りに並んだ。
「やあ、真智子」
慎一が真智子に向かって笑いかけると真智子は慎一をじーっと見つめて言った・
「慎一、今日は顔色が悪いみたいだけど、何かあった?」
「うん。昨日、父が来てね。ちょっと寝不足かな」
「お父さまに何か言われた……とか」
「受験のこととか受験後のこととか……」
「受験後のこと?」
「うん、まあ、いろいろあってね」
慎一がそこまで言ったところで音楽室に着いた。
「寝不足なら、今日は慎一は休んだ方がいいんじゃない?」
「そうだね。今日は真智子のピアノを聞きながら、少し休もうかな。今日はグリーグの『ノクターン』を用意してきたよ。真智子も弾いたことあるかなって思って」
「弾いたことあるよ。グリーグの曲は繊細で研ぎ澄まされた印象があるよね。だけど、慎一、そろそろ寒くなってきたし、うたた寝すると風邪ひく可能性があるから心配……」
「うん。そういえば、暖房があったよ。念のため入れよう」
慎一は暖房を入れると音楽室の端にあった椅子に座った。
「少し休むから、真智子の演奏聞かせてよ」
「うん。じゃあ、今日は私の演奏を聞いてね。グリーグの『ノクターン』を選んでくるなんて、慎一ははじめから休むつもりだったでしょ」
「そう……。昨日はなんだか、疲れたからね」
真智子は慎一のことを内心、心配しつつ、グリーグの『ノクターン』を弾きはじめた。最後まで弾き終えた後、慎一の方を見ると慎一は俯いたままうとうとしている様子だった。このまま弾き続けていいかどうか真智子は内心、途方に暮れて、慎一の方にそーっと近づくと、慎一が突然顔を上げた。
「あっ、もう弾き終わった?とても上手いから熟睡しちゃったよ」
「そんな冗談言って、ほんとうに疲れてるんだね」
「まあ、疲れてるけど、休めば大丈夫だから。今日はそのまま真智子が弾いてよ。真智子の演奏聞いてると疲れがとれる気がする」
「うん、わかった、じゃあ、今日は私がずっと弾くね」
真智子はピアノの方に戻り椅子に座ると、グリーグの『ノクターン』を再び弾き始めた。
※グリーグ抒情小曲集 Op54-4 『ノクターン』
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