1-2 真智子と修司
秋の澄んだ陽射しを反射した爽やかな風が真智子の柔らかな髪を涼やかに揺らした。昔、田辺修司とよく待ち合わせしたサッカー部の部室の傍の銀杏並木のベンチに座り、ひらひらと舞い落ちる銀杏の葉を何気なく見つめながら、真智子の脳裏に不意に昨日の出来事の回想がよぎった。その回想を振り切るように、真智子はぽつりと呟いた。
「修司はまだかな?」
―丁度そのとき、向こうから修司が息せき切って走ってくるのに気付いた。いつものユニフォームに身をまとった埃まみれの姿がなんだか懐かしい―。
去年までは真智子はサッカー部のマネージャーとして、修司をはじめサッカー部の部員たちの世話をしたり、こまごまと差し入れをしたり、応援にはりきったり、そんな毎日を送っていたのが遠い夢の日々のように感じる。修司は自分の得意分野のサッカーでの推薦で進学を決め、相変わらずボールを追う毎日だったが、音大受験の準備のため毎日のようにピアノの練習に励む真智子は三年になってからはすっかりサッカー部には出入りしなくなっていた―。
修司と真智子はいつからかサッカー部の部員たちに言わせれば、いわゆる公認の仲といったような間柄だった。…といっても練習試合やトーナメント戦などで学外に出かけるときには真智子が修司のお弁当を作ったり、ふたりで待ち合わせして試合会場に出かけたり、部活動のあと一緒に帰ったりといった付き合いで、他の部員たちと一緒のときも多かったし、なんとなく、いつも他のサッカー部員たちの目を意識した健全な関係だった。お互いポンポンと言葉を交わすうちに、気が付いたらいつも一緒にいた。お互いの気持ちを交換したこともなかったのだが、一緒に過ごす時間が心地よくて話しも弾み、気が合った。
「久しぶりだね。話しがあるって何?」
修司はいつものようにくったくのない笑顔で話しかけてきた。
「うん……。私達ってさ、付き合っているんだよね?」
「え?どうしたの、突然?」
「うん、最近気になる人ができたの」
真智子はうつむいたまま目の置き場もなく、修司の土で汚れたサッカーシューズを見つめていた。
「修司のクラスの転校生の真部君、音楽室にピアノを弾きに来てるの」
「真部って…お前、あんな気取ったやつが趣味だったの?」
「趣味っていうか……音楽室で一緒にピアノの練習することになったし」
「それで?」
「だから、中途半端なことはできないかなって思って。真部君のことも……、ピアノのことも……」
修司は真智子の手元をしばらくじっと見つめていたが、突然真智子に背を向けると近くに偶然転がっていたサッカーボールを思いきりよく蹴った。そしてボールが飛んでいった先をぼんやりと見つめている真智子の方をふいと振り返ると、ぶっきらぼうに言った。
「後悔しても知らんぞ」
「うん……。修司のこと好きだよ、今でも」
「何?今さら?手も握らせてくれなかったくせにそんなこと……。まあ、真智子にはサッカー部でさんざん世話になったからな。それに、まあね、ピアノを弾くお前の姿、確かに好きだよ。真智子がサッカー部に来なくなってからもときどきね、ピアノ、しっかり頑張ってるかなって思ってたし。疲れた時に休みがてら音楽室の廊下で聞いてたこともあったし……。お前、真剣にピアノ弾いてたからさ、声、かけられなかったし、気付いてなかっただろうけど。背筋をしっかり伸ばして、まるで子守り歌のようなメロディー奏でて……。なんか凄いって心の中で拍手したよ」
「えっ、そうだったの?」
「まあね」
「そっか……、ピアノ聞きにきてくれてたんだ。全然、気付かなかった。ありがとうね」
「まあ、聞きに行ったっていっても、ちょっとだけだよ。サッカーの練習あるし、ほんのちょこっとだけ。真智子が来なくなってみんな寂しがってたからさ」
「ええっ、もしかしてサッカー部のみんなで聞きにきてた?」
「いや、みんなっていうか、一部でね」
「そっか、そうだったのか……、誰も何も言わないからさ、全然気づかなかった。そっか、そうだったのか……」
「…とにかく、サッカー部のみんなが真智子の音大受験のことは応援してるし、俺もさ、真智子が合格したら、お祝いパーティでもしようかとか、考えたりはしてたし」
「うん。合格したら、お祝いパーティはいいな、とは思うけど、その前に合格しないといけないからさ。けっこう大変なんだよ、音大受験って……」
「まあ、そうなんだろうけど」
「そう、だから、これからも修司とは友達でいたいからこそ、真部君のこと伝えておかなければって思って」
「そうか……」
「うん。ピアノの練習も頑張らなきゃって思ってるし」
「…真智子のしたいようにすればいいさ。真部なんて転校してこなければよかったのにって思うけどさ」
「修司とはこれからも友達でいたいから、これからもよろしく!」
そう言うと、真智子は修司に向かってそっと右手を差し出した。
「ん?」
「だから、握手、これからもよろしくね!」
真智子の白い手をはじめて握り締めながら、ひんやりとした指先から伝わる微かな温もりをにわかに感じ取った修司は自分の中から止め処なくこみ上げてくる思いを隠すのに必死だった。一方の真智子も修司のごつごつとした手のあたたかさと大きさを感じながら、思わずこのまま時間が止まってしまわないかとそんなことを思う自分が切なかった。
「今日もこれからピアノの練習?」
「うん」
「なんでわざわざ音楽室で練習するんだ?」
「家でもいいんだけど、音楽室の方が緊張感が保てるんだよね」
「そっか、じゃあ、がんばれよ!俺もそろそろ部活あるからさ」
「じゃあ、またね!」
校庭に向かって走っていく修司の後姿をしばらく見つめながら真智子は思った。
―今度はいつ話せるかな?
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