序曲 プレリュード from season to season

中澤京華

第1章 ピアノの旋律

1-1 真智子と慎一の出会い

 放課後、いつものように音楽室へと小走りに歩を進める真智子の耳元に囁きかけるような心地よいピアノの旋律が舞い込んできた。


 ―リストの『愛の夢』―。


 ロマン派の甘い陶酔を含んだ柔らかく、烈しい情熱を秘めた旋律は耳元をかすかに撫でながら、真智子を夢の世界へと引き摺り込むようななめらかさと密やかさを含み、胸に迫り込んでくる。真智子の歩調は旋律に合わせてどんどん早くなり、無意識のうちに身体より心が先に音楽室へと駈け込んでいくような不思議な錯覚に包み込まれていた。


 放課後の黄昏時の静謐な空気を打ち破るピアノの旋律に心打たれ、何かがはじまるような予感に包まれ、真智子の胸の鼓動はピアノが奏でる美しい旋律と共鳴し、小刻みに波打った。胸の鼓動が俄に高鳴っていくのを感じながら、真智子の思考は真直ぐに一点に絞られていった。


―一体、誰が弾いているのかしら―。


 真智子の心の呟きはその柔らかな調べと重なり合って静かなアンサンブルを描きはじめ、何度も何度も繰り返される呪文に囚われていくように真智子は不意に微睡んだ。


―この旋律を奏でるのは一体、誰? 


 その日は朝から強い風が吹いていた。校舎の裏庭の楓の樹が枝葉を大きく揺らし、そんな真智子の姿をそっと見守っているようだった。真智子の胸の鼓動も背筋を伸ばしたすらっとした身体も静かに流れ続ける旋律の渦に大きく包み込まれていた。音楽室の扉は閉まっている。扉の前に立った途端、かすかな躊躇いの感情に囚われながらも扉の内側でピアノを奏でる人物を見たいという強い衝動にかられ、真智子の胸は高鳴った。そして高鳴る鼓動を確認するかのように胸の前で拳をぎゅっと握りしめると祈るような気持ちで深々と深呼吸した。扉の取っ手を掴む手からどっと冷や汗が滲み出るのを感じながら、真智子は思い切りよく音楽室の扉を開いた。


 小刻みに震える旋律が大きな波のようになって押し寄せてきた。正確なタッチで押し寄せてくるフレーズの波に包み込まれ、真智子はなめらかに振動する空気のような澄み切ったイマジネーションの世界へと身を投じていくような錯綜の渦中で、俄かに身震いしながらピアノの方へと目を移した。そこでピアノを奏でる青年の視線はひたすらに鍵盤に注がれている。ときどき目を瞑りながら旋律の流れに心を浸透させ音楽へと浸り込んでいる青年の姿に見惚れて真智子はぼんやりと突っ立っていた。まるでひと雫の波紋が静かに水面を揺らしながら伝わっていくような自然な美しい調べ……。真智子は青年の横顔をじっと見つめながら、流れてくる旋律に心を乗せた。その旋律はまるで穏やかな海の景色が静かに広がるように真智子の心を温かく包み込んでいくのだった。


 やがて、潮が静かに引いていくように曲が終わると、真智子は咄嗟に両手に力を込めて拍手した。青年は真智子の方を見ると一瞬、戸惑いの表情を浮かべ、視線を鍵盤の方へとそらしたが、思い直したように再び真智子を見つめ返した。真智子の柔らかな微笑みが青年の戸惑いを取り除いたのか、青年の顔にもほのかに笑みが浮かんでいる。


「いつからそこにいるの?」

「え?突然、ごめんなさいね。私も放課後はときどきここでピアノを弾かせてもらっているの。ここのグランドピアノの音色は格別でしょ。まるで自分がピアニストにでもなったような気分に浸れるもの。……えっと私は三年C組の高木真智子。音大を受験する予定なの。それで最近になって音楽室のピアノを弾かせてもらっているのよ。あなたは?」


「ああ、君が高木さんだね。先生から君のことは聞いているよ。僕は真部慎一。一週間前ほどに三年A組に転校してきたんだ。僕も音大を目指しているんだ。それで君と同じくここのピアノを貸してもらうことになったんだ」


「あなたが噂の転校生ね。ふふ、かっこいいって評判だけど本当ね」


 真智子は握ったままの拳を口元にあてて、いたずらっぽい目で慎一を見つめた。慎一はそんな真智子のしぐさを可愛いなと内心思いながら、照れ臭さで耳元が熱くなっていくのを感じていた。


「高木さんのピアノも聞いてみたいな」

「私は真部さんほど上手くないけど……そうね、ドビュッシーの『アラベスク』なんてどうかしら?」

「えっ……ドビュッシー、いいね。聞かせてよ」 


 一瞬、慎一は驚いた表情を浮かべたあと、さっと席を立って窓辺に向かった。真智子はピアノの方に向かいおもむろに腰掛けた。先程まで座っていた慎一の体温がにわかに伝わり、真智子の胸の内にそっと小さな戸惑いが生じた。鍵盤がいつもより白く荘厳に輝いて見える。窓辺に立つ慎一の存在を意識して胸の鼓動が幾分高鳴るのを押さえながら真智子は目を閉じ、指先に神経を集中させた。


―と、次の瞬間には心は指先が奏でる夢の世界へと誘われ、静かに流れ出す春の泉のようななめらかに弾む空間へと滑り込んでいった。優しく穏やかな音の波動は野辺に咲くたんぽぽのような真智子の心を淡く映し出しているようだった。


 曲が終わるとともに静かな沈黙が流れた。真智子はそっと慎一の方に視線を向けた。俯き加減に床を見つめて突っ立ったままの慎一の姿に何事が起こったのかと真智子は内心慌て気味に呟いた。


「どうしたの?」


―にわかに沈黙が破れると同時に、慎一がじっとこちらを見つめているのに真智子は気付いた。その熱い視線に戸惑いを感じながら、真智子の頬が熱く火照った。


「……なんだか懐かしくて……。母が昔よく弾いてくれた曲なんだ。母はもう、この世にはいないんだけどね」


再び沈黙が訪れた。真智子は一瞬、あとに続く言葉を失った。


「君のその柔らかな感性で僕の心も包んでくれないかな」


慎一の言葉に真智子は内心慌てた。


―何を言っているのだろう、この人は。さっき顔を合わせたばかりなのに―。


 そう思いながらも真智子は慎一に強く惹かれている自分を否定できなかった。


「いいよね」


 慎一はおもむろに真智子の側に歩み寄ると真智子の柔らかな髪にそっと触れた。窓の外は宵闇が広がりはじめる一方で夕焼け雲の上に瞼を焼きつくすような赤々とした太陽がくっきりと映し出されていた―。


 真智子は内心、少し重苦しく感じた空気を打ち破るように言った。


「お母様のアラベスク、私も聞いてみたかったな。きっと私よりずっとお上手だったのではないかしら?」


「上手というか……母は身体が弱かったし繊細だったからね。物心ついた頃から、僕は母からピアノを教わっていたけれど……」

「お母様はいつお亡くなりになったの?」

「中学の頃」

慎一は少し苛々した口調で答えた。


「ごめんなさい。立ち入ったことを聞いてしまって」

「そんなことないよ」

―しばらく沈黙が流れた。


「私、今日はもう帰るね」

「また来るよね。僕は毎日来るから。なにしろ、叔父の家にはピアノがないからね」

「叔父様の家?」

「そう、今は叔父の家に下宿させてもらっているんだ。そのうち、どこかピアノがおける下宿先を探すつもりだけど……」

「そう……。大変だね」

「まあ、一人には慣れてるけどね」

慎一は少しぶっきらぼうに呟いた。


そんな慎一の様子見て、不意にこみ上げてくる感情の渦にノックされるように真智子は意気込んだ。


「私でよかったら、ピアノ、一緒に頑張ろっか!じゃあ、また来るから!」


そう言うと、真智子は急いで逃げ出すように廊下へと走り出た。廊下を走る真智子を追いかけるように慎一の奏でるリストの『愛の夢』が再び流れはじめ、真智子の耳の奥でくるくると渦を巻くように鳴り響き、そしてだんだん遠くなった。

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