1-3 ショパンの『エチュード』
音楽室に向かうとショパンのエチュードが聞こえてきた。慎一が弾くピアノの音色に耳を傾けながら、真智子はそっと窓辺に立った。夕陽がゆるやかに迫り来る黄昏時の景色に目を奪われながら、真智子はサッカー部でマネージャーをしていた頃を不意に思い出していた。
―あの頃は、気楽でよかったな……。
真智子がピアノを習いはじめたのは三才からだったが、本格的に音大を目指すことを意識したのは高校に入ってからだった。とても険しい道だとわかっていたからこそ、音楽の道に進むことを決意するまでに時間がかかった。高校受験の頃はまだ音楽科の高校に進む勇気はなかったし、大学の進路志望を決める際も友人たちが進路をさっさと決めていく中で随分と迷った。夢というのは懸命になればなるほど、高みに向かっていく決意で望まなければならないことをだんだんと強く意識するようになった。
「何か考え事でもしているの?」
心配そうな慎一の声にはっと顔を上げるとピアノを弾き終えた慎一が真智子の方を見つめていた。
「えっ、なんでもないよ」
「高木さん、来てくれたんだね」
「真部君、エチュードも力強くて上手だね。レベルが高いから圧倒されちゃうよ」
「君のエチュードも聞かせてよ。それとも何か一緒に連弾する?」
「じゃあ、エチュード、頑張ってみる」
人前でピアノを弾くのには慣れているはずなのに、慎一の視線が気になってなんだか気分が落ち着かない。真智子は深々と深呼吸すると指先に神経を集中させた。
※ショパンのエチュード;エチュード 作品10-4 嬰ハ短調
「きれいにまとまってるね」
真智子がピアノを弾き終えると慎一は拍手して言った。
「そうかな。真部君のエチュードに比べると迫力に欠けるし、なんていうか、こう…躍動感みたいなものが伝わらないんだよね」
「でもそれが君らしさなんじゃないかな」
「そうかもしれないけど、この曲が課題曲だったら、私、落ちるかもしれない……」
「それは受けてみないとわからないよ」
「そうかな……」
「そうだよ。むしろこのぐらい弾けていれば、課題曲はOKだと僕は思うけどな。間違えずに弾き通すってだけで、テクニックが評価されると思うし。もちろん、自由曲は、もっと自分に合った曲で挑戦すればいいわけだし」
「ところで、真部君はもちろん、芸大が第一志望だよね?」
「もちろん、高木さんもそうでしょ?」
「そうだけど……、たぶん、無理だと思うけどね」
「まあ……、芸大こそは受けてみないとわからないし、僕も絶対に受かる自信はないよ。で、私立はどこを受けるの?」
「桐朋を受ける予定かな」
「じゃあ、僕も桐朋にしようかな。私立はまだ決めてなかったから。他に留学の話が少しあるんだ」
「留学!わぁ、すごいね」
「別にすごくないし、まだ話があるってだけで」
「でも私にとってはない話だもの」
「まあ、そうなのかもしれないけど」
「ところで、なんで、こんな中途半端な時期にこの高校に転校してきたの?」
「叔父の家の近くで転入しやすかったから。実家は奈良なんだ」
「奈良って、あの大仏様の奈良だよね」
「そうそう。その奈良。芸大第一志望だから、今のうちにこちらの環境に慣れておこうと思って、叔父にお願いして、叔父の家からこの高校に通うことにしたんだ。でもそのうちピアノが置ける下宿を探す予定だけどね」
「奈良からピアノを持ってくるの?」
「まあ、そのつもりだけど」
「ますます、すごいなあ!奈良の由緒正しきお坊ちゃまって感じ?」
「あのねぇ……高木さん……」
「そっか……、奈良からこっちに引っ越してきたんだ」
「まあ、そんな話はいいからそろそろ練習しようか」
「そうだね」
「今日はこのエチュードをお互い交互に弾き合うってことで」
「了解です。じゃあ、次は真部君の番ね」
慎一と真智子ははじめて出会った時とは打って変わって、知らず知らずに打ち解けていた。
慎一と真智子が一頻り交互に練習を繰り返すうち辺りは次第に暗くなり、やがて音楽室も夕刻の宵闇に包まれはじめた。
「暗くなってきたから、そろそろ終わりにしようか、明日もあるし」
「そうだね」
「今日は、練習に来てくれてありがとう。一人で練習するよりお互い刺激になるよね」
「ほんと、ひとりの時とは全然違うね。良い刺激をもらったわ」
「君もそう思ってくれてよかった。これからも本格的に頑張ろうか」
「そう、本格的に頑張らなきゃね」
そう言いながら、真智子はどこか程よい緊張感に包まれたような心地よさに浸っている自分自身に気付いた。
「明日、何を練習するかは君が決めてきてね。受験のこともあるし、音楽室ではお互いにとってできるだけ充実した時間を過ごしたいね」
ふたりが一緒に校舎を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「高木さんは帰りは……?」
「練馬駅から大江戸線で光が丘駅に行くけど、真部君は?」
「僕はここからそう遠くないところだから、高木さんのこと駅まで送るよ」
ふと運動場でまだ残っている生徒がいるのに真智子は気付き、何気なく修司の姿を探したが、すでに帰ったか、部室の方にいるのか見当たらなかった。真智子は昨年の今頃のことを思い出しながら、慎一と一緒にこうして歩いているのがなんだか少し不思議だった。
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