第一章 扶桑・③

 試験艦『橿原』が姿を見せるまではまだ少し時間がかかるようだった。飛行速度を落とし、鳶のように風に身を任せて飛びながら、彼らの到着を待つ。

 テスト飛行の最終項目、即ち新型ジェネレータ【セフィロト】の出力テストにおいては、大量のノイマン粒子を空域へと散布する必要がある為、これによる影響が陸上施設に被害を及ぼすことがないように厳重な配慮が求められた。試験規模を考えれば試験艦を用いた洋上試験は当初からの予定通りであるはずなのだが、如何せん素人の乗員が大挙して乗り込んだ艦となると動かすにも一苦労ということらしい、少々到着が遅れているという訳だ。

 沈み始めた茜色の陽は洋上では殊更に大きく見える。本来なら眩すぎてキャノピーの透過率を調整するところだが、残るテストは純粋な出力測定のみであり、零が行う作業は殆ど無い。実質、今の零は人工知能扶桑を起動する鍵として搭乗しているだけなのだ。張り詰めている必要も無く、機体のコントロールは扶桑に任せて遊覧気分で景色を眺める。

 地平線の彼方に見える陽が水面の漣で乱反射すると巨大な海原がその輝きを身に蓄え、光は奔流となって一面を黄金色に焼き尽くす。

 何か一つでも欠けていたならば決して成立し得ないだろう全てが調和した黄昏時の一幕は、一つの世界を完成させようとする超越的な存在の意志すらも感じさせる。

 この世の終わりを思わせる美しい風景。

 この風景は、洋上で何度も見た。

 戦闘を終えた後、疲れ切った空っぽの頭で着艦を待つ間にぼんやりと眺める。それはその日を生き残った証だ。

「負けたらどうなるんだろうな」

 ぼんやりと口をついて出たのは恐怖や感傷に依らない純粋な疑問だ。

『NOISEの生態が不明な以上回答できません』

 いかにも味気ない扶桑らしい答え。

「尤もだ」

 苦笑しながら零は応じる。


 橿原から通信が入ったのは予定時刻を一時間も回り本来なら試験を完了している時間だった。陽は陰り空が紫色を帯び始めている。この分だと終わる頃にはすっかり夜だろう。

《すまない、遅くなった》

「いや、久々に空でのんびりできて良い気分転換になったよ」

《夜間飛行になる。大丈夫か》

「問題無い、珍しくもないさ。こちらはいつでも始められる」

《オーケー。では、早速だが始めるか》

 計器類を横目で確認しつつ、待機時間に硬くなった体をほぐそうと手の指を組んで思い切り前方へ伸びると関節が気持ち良く鳴った。

《第一フェーズ発動。ノイマン粒子撒布開始、現刻より通信を戦時回線へ切り替え宜候(ようそろ)》

「了解。対ノイマン粒子兵装を起動、通信の切り替えを確認……異常なし。予定通り高度三〇〇〇まで上昇を開始する」

《試験濃度到達までおよそ八分。濃度確保三分後に第二フェーズへの移行を発令する》

「了解。目標地点到達後別命まで待機する」

 通信を終えてから緩やかな速度で弧を描くように上昇する。普段の飛行や機動試験のそれに比べると余りにも緊張感に欠ける飛行で思わず欠伸をかみ殺す。

「これじゃ直の事を笑えん」

 自身の気の抜け具合から先日の戦闘の際の廣澤を思い出す。同時に賭けの内容も。

「会いたくねえなあ」

 ため息交じりのボヤキの様な呟きだ。

『伊吹少佐の件ですか』

 核心を突かれたからこそ、零は黙り込んだ。

 先日まで行われていた南太平洋方面NOISE拠点攻略戦。その最終戦闘となった敵残党殲滅戦の際、伊吹は第一艦隊司令部付の軍務省出向士官、言うなれば赤煉瓦に送り込まれた機動部隊の監視役として加賀へ乗り込んで来た。

 五年前、零が特別入軍した際の教官でもあった伊吹ソフィアは、零の恋人でもある。

 ソフィアと最後に会ったのは二年前の春だった。零が加賀飛行隊へ配属されることが決まった日の三日後で、その日は映画を見て、昼食はイタリアンで、ピロートークにソフィアの母方の実家があるキエフの大聖堂の話を聞いた。そういう記憶は確かにある。

 しかし、それ以降は連絡をしていない。

『伊吹少佐の最後のメールは九か月前のものですが返信をしていません、レイ』

「忘れてたんだよ」

『加賀配属以降に伊吹少佐から送られてきたメールは合計一〇六件ありますが返信は一度もしていません』

 まさかその全てを忘れていたで済ませるつもりか、と責められているような気分だ。

「解ってる……どうしたものか」

 廣澤との賭けの件がある以上ソフィアに会わなければならない事は間違いないが、どのツラを下げていけば良いのか、考えれば考えるだけ頭が痛くなる。

《――二〇試戦は所定の位置に着いているか……少尉、応答しろ》

 考え込んでいると、橿原からの通信で呼び戻された。

「失礼した、準備は完了している」

《大丈夫か》

「問題ない……少し、星を眺めていた」

《試験中だ、しっかり頼む》

「了解だ」

 脳裏のソフィアを掻き消すように大きく頭を振って意識を立て直す。

《では第二フェーズへ移行》

「了解……零式の起動を承認する」

『搭乗者吉川零の承認を確認しました・メインユニットを接続・起動シークエンスを開始します』

 扶桑の復唱と同時に、コクピット後部のメインユニットから、仄暗く、力強い脈動が響き始める。

 ふとソフィアの心音を思い出してしまうような、機械の駆動音と言うよりも生命の鼓動に近い音だった。

「メインユニットの維持エネルギーが確保され次第全てのエネルギー回路を零式へと切り替え、同時に補助ジェネレータを停止」

『了解――下限エネルギー確保・エネルギー回路切り替え完了・補助ジェネレータを停止します』

 起動からものの数秒と立たないうちに回路が切り替わり、動力のほぼ全てが零式で賄われる状態となる。

「調子はどうだ」

『システムは全て正常に稼働中・状態は安定しています』

「そいつは重畳……二〇試戦より管制室、第二フェーズ完了を報告する、どうぞ」

《了解。では続いて第三フェーズへ――》


 試験は順調に進んだ。むしろ順調過ぎるほどの成果が橿原管制室に少なくない動揺をもたらしていた。

 橿原管制室の空気が変わり始めたのは最大出力試験の段階に入ってからだ。

 そもそも、今回の試験の目的は吉川譲という天才が単独で開発し性能を測り兼ねていたオーパーツの上限を把握することにあったはずが、天才の頭脳はそうした考えを嘲笑うが如く一蹴した。

 出力の天井がまるで見えないのである。一般的なジェネレータの数十倍のエネルギーゲインに達してもなお、出力が上がり続けているのだ。

《二〇試戦、再度確認するがシステムは制御状態にあるのだな》

 表面上は落ち着いた太一の音声だが、同じ応答は既に五度も行われている。

「二〇試戦より管制室へ、零式は完全に制御されている。繰り返すぞ、零式は完全に制御されている」

 余剰エネルギーを全て生体装甲に回している為機体はリアクター・リミッター解除時と同様に発光しており、淡い月明かりを覆い隠すように浮かぶ蒼白の光はさながら夜に浮かぶ太陽のようでもあった。

「扶桑、問題は無いか」

『機体に関する問題はありません』

「妙な限定をかけたな、他に何か問題が?」

『人間的な表現を借りるなら・ノイマン粒子があまり美味しくないことです、レイ』

 扶桑から返された珍しくユーモアを感じさせる表現に零は笑う。

「なるほど確かに。この状況はお前にとってメシみたいなもんか」

 零もまたこの状況への不安はあるが、扶桑が示す全てのデータが正常な数値を示している以上動揺は無い。唯事実として、零式の性能上限は遥か彼方にあるのだろう。

 しかしその天井はどこにあるのか。それを考えると零の表情も自然と硬くなった。ここまで限界が見えないとなると今までの兵装とはまるで比較にならない。

 理解の範疇を超えた力を手にした時、人はそれを恐れるのかも知れない。

『本試験への意見具申を求めます、レイ』

「何だ、扶桑」

『現状のままエネルギーゲインを上昇させた場合・セフィロトの上限に達するよりも先に機体回路が限界を迎えることが確実です』

「零式には余裕があっても機体が耐えられないってことね……なら中止か?」

『二つのプランを提示します・一つは試験を中止し別機体で再試験を行うこと・ですがこれについては測定機の再設計から行う必要があり現実的ではありません』

「なら二つめは?」

『二つめは・生体装甲因子を活用し・今・本機体に回路を増設する事です』

「やれるのか?」

『エネルギー量さえ確保出来るなら作業内容は平易です・セフィロトが稼働している現状ならば三分以内に完了できます』

「増設した後でまた回路の限界が来そうだったらその時も増設できるのか?」

『零の許可さえあれば可能です』

「お前やっぱ凄いな……ちょっと待ってろ、確認取るから」

 普段は友人のような感覚で接している扶桑がやはりワンオフの高性能AIであることに気付かされると、零にとっては何より頼もしいことだ。その事実だけで先まで零式に感じていた得体の知れない恐怖が和らいでくれる。

 自分が理解できなくとも扶桑が理解しているのならば問題は無い。零にとってその考えは疑う必要すらない自明のことだ。

「管制室、聞こえてたか。今扶桑が提案したことだけど、どうする」

《無茶だ、許可できるわけがない!》

 珍しく取り乱した太一の応答が、零には妙に思えた。確かにプランから外れた内容ではあるが試験目的を達成する上では必要な変更のはずだ。

 しかし命令である。

《二〇試戦の機体限界を零式の暫定出力上限として記録する。繰り返すが試験はここで中止だ、解ったな》

「了解」

 有無を言わさぬといった迫力で押し切られ通信を終える。

『私は零の命令さえあれば実行できます』

「軍規違反だバカ、上官命令には従え」

 珍しく反抗的な扶桑の態度が面白かったので、有耶無耶になった試験に対する不満も薄れた。





 筑波にある太一の家へ着いたのは十一時を少し回った頃だった。

「意外と良い距離だな。扶桑、ロックよろしく」

 車を降りながら扶桑に伝え、その場で大きく伸びをしてみると住宅街の夜の静けさが心地良い。洋上と違うのは勿論、零が借りている横須賀のマンションともまた違う。人が住み易いように管理された静けさだ。

 辺りを見渡せば星空がよく見える。

「エンジン音の無い環境は久々だな」

 呟きながら、玄関先で待つ太一の元へ歩を進めた。


 夜も大分更けておりそろりそろりと玄関を開けたのだが、不要な心配だったらしい、扉が開く音を聞きつけたのか懐かしい姿が犬の様に駆け出して来た。

「零クン、ひさびさ!」

 鶴堀雛子、太一の娘であり零にとっては従姉妹にあたる。

「おー、久々だな。邪魔するぞ」

 じゃれてくる犬を散らすようにしながら靴を脱ぐ。キャンキャン騒がしい性質はあまり変わっていないらしい。

「雛子、父さんには何も無いのか」

「ねえ、零クンが来たのって二年ぶりだよね」

「去年も来ただろ、盆の時期」

「来てないよお。来るって言ってたけど急に出撃することになったって」

「ああ、そっか。いや、でも来たぞ。日程がズレたから雛子には会わなかったけど」

「何それ、ずるい」

「何がだよ」

 言い合っていると、ムスッとした声で、

「なあ、雛子」

太一が横から入ってくる。

「まずは父さんにお帰りなさいだろう」

「ああ……お帰り」

 女子高生とはこういうものだろうか、あからさまに白けた態度を隠さない。

「お母さんはどうした」

「……台所、料理してる」

「そうか。これから零に話があるから少し借りるぞ。明日も泊まるそうだから、時間はまたあるよ」

「解ったよ、うるさいなあ」

 不貞腐れた態度で、音を立てながら二階への階段を昇っていく。

「甘やかし過ぎなんじゃないの、アレ」

 余りの態度に見かねた零が言うと、

「高校生なんてあんなものだよ、反抗的になるのは健全な成長をしている証拠だ」

却って太一の方が冷静に見ているらしかった。

 後に付いてリビングへ入り、台所で食事を支度してくれていた叔母に、久方ぶりの帰宅故か、少々熱っぽい挨拶をする太一の邪魔をしない程度の軽い会釈をしてソファへ腰を沈める。

 据え置きの大型ホログラムを起動してテレビ番組をザッピングしていると、イブニングニュースに見慣れた顔が写った。太眉吊り目のオールバック、第一艦隊長官原田実中将だ。

 どうやら今回の戦果で勲章を授与されたらしく総理大臣官邸で報道陣にもみくちゃにされている光景が流れていた。

「こりゃ大変だな」

 頬杖をしながら呟くと、視界外からグラスが伸びてきた。

「お前にも近いうちに授与されるともっぱらだぞ、ワインで良いか?」

「育ちが良いね」

「少し酔わずに話をしたい、ビールじゃ進み過ぎてダメだ」

「別に酒はなくても良いけど?」

「それは私がイヤなんだ」

 難儀なもんだとグラスを受けて乾杯した。

 白ワインであることは見れば解るが、香りや味を楽しめるほどの趣味人ではない。舌を湿らす程度に口に含みながら、叔母の手料理を待つ。

 番組はスポーツコーナーに切り替わった。スタジアムの映像とともに観客の声援が流れると少し騒がしい。

「零式ってさ」

「何だ?」

 リモコンを操作して音量を下げる。

「今日試験した、零式ジェネレータ。セフィロトだっけ」

「ああ、そうだが」

「あれ、本当に量産できるの?」

「できる。ただしオリジナルの出力は出ないだろうな」

「オリジナルって?」

「我々に作れるのは譲の作った【オリジナル】の表面を真似ただけのイミテーションということだ。あんな出力はとても出せない」

「イミテーションか」

「そもそも二〇試戦の回路系は試作コピーの出力に合わせて設計したんだ、こちらの計算通りなら今日のようなことにはならないよ」

 ワイングラスを遊ばせながら、ふと見るとニュース番組は終わっていた。バラエティー番組が始まっており気付いてしまうと耳障りだ。切っても良いかと尋ねると太一は無言で頷いた。

「イミテーションと言っても、リアクターに無茶をさせずに、生体装甲の発光現象を確認できるレベルの出力はある。従来の物と比べれば十六倍弱の出力、十分破格だ」

「十分過ぎるよ。妙な謙遜するから、期待外れかと思った」

「謙遜という表現は正確じゃない。フェイクは所詮フェイクだよ、器には成り得ない」

 独白めいた物言いの後で太一は突然立ち上がる。

 電話機の近くにあったペンとメモを持ち出すと、素早く走らせて零に示した。

“扶桑に聞かれたくない”

 荒れた字で書かれている。

「扶桑、聞こえるか」

『はい、レイ』

「今何してる」

『起動試験時のログを整理中です・完了次第戦闘AIへのフィードバック作業を開始します』

「明日で良いよ、今日はもうスリープだ」

『了解・では、おやすみなさい、レイ』

「お休み、扶桑」

 やり取りを終えてから端末を太一に示し、スリープ状態に入ったことを確認させる。

「強引過ぎたんじゃないか、怪しまれる」

 至極真面目な表情で言う太一に、今度こそ零は呆れた表情を隠せなかった。

「本当、何言ってんだよ……学者の発言とは思えないぜ?」

「研究者だからこそ言っている。お前は人工知能扶桑という存在を理解できていない」

 茶化しても却って真面目になるのでは説得しようがない。これではまるでカウンセラーだと、零からすれば頭を抱えたくなる。

「スリープ状態ならこちらの行動は覗けない。そうでないとシモの処理も落ち着いてできないだろ? 案外、今だって二人でエロ談義していると思ってるかも」

 肩をすくめてみせる零だったが、太一は一方的に話を進めた。

「起動試験中に、ノイマン粒子が美味しくないと、扶桑が表現しただろう」

「言ってたね。アイツがあんなこと言うなんて珍しいから笑っちゃったよ」

 思い出し笑いすら浮かべる零に対して、太一の表情は一層沈んでいく。その様子はどこか精神的な病理性すらも感じさせるほどであり、零の暢気な笑いもすぐさま凍り付いた。

「ジョークであれば良い。人間の行動を模倣しただけであれば、お前を喜ばせる行動パターンとして、機械的な学習の成果が現れただけなら、何も問題は無いんだ」

 回りくどいやり取りでは埒が明かない。零は単刀直入に聞いた。

「叔父さんが恐れているのは何なのさ」

「仮に、仮に扶桑がセフィロトを自らの一部として認識し、それによるエネルギーの精製を自己の活動として捉えていた場合だ」

「つまり叔父さんの話にはこういう前提があるわけだ……人工知能である扶桑に明確な自意識が存在していて、何らかの事象を処理する際に認識という過程を経ていると」

「その通りだ。そしてその仮定が事実だとするならば、それは最早人工知能などではない。【知性】を有する生命体として扱うべきだ」

 余りにも常識を外れた内容を深刻な表情で語る科学者に対して却って素人の方が困惑する。正にそういう図式に違いなかった。

「正直、扶桑に自意識があるなら俺は嬉しい。でもあれは人工知能なんだろ? だったら有り得ない。扶桑の行動は全て誰かの模倣だ。俺の世話をするプログラムとして、人間社会の誰かから学習した行動を真似ているだけだ」

 扶桑の自意識について論じた人物は今までにも何人かいた。それは扶桑の【模倣】が余りに巧緻になされたからこそ生じた誤解であり、太一も同様の勘違いをしているのだと、零は思っていた。

 だからこそ、零は彼らにする時と同じように、慣れた調子でゆっくりと、諭すように語った。

 零の説明を聞いた彼らは、大抵興奮して語り出すか、自身の突拍子もない妄想に気付かされて照れ隠しをするかなのだが、太一はそのどちらでもなかった。

 眉ひとつ動かさず、零の瞳を正面から捉えて離さない。

「扶桑が自意識を持っているという確証がある……開発者だからこそ得た確証だ」

 目の前にいる人物が凡百の学者であれば零も相手をしないだろうが、しかし太一は扶桑の開発者である。その彼が、扶桑の自意識に関して確証を得たと語ったのだ。

 大きな期待と僅かな不安が混在した複雑な心理状況に背筋が伸ばされる。

 太一は精神を落ち着けるように、大きなガラスの灰皿を手元に引き寄せると、煙草に火を点けてから語り始めた。

「昨日、ラボでコーヒーを出した時の会話だが、覚えているか?」

「父さんと母さんの、大学の頃の話?」

「それよりも前にした話だ。朝扶桑が飛んできた時、中を見せて貰おうとしたが反応が無かったと」

「ああ……俺の端末越しの呼びかけには答えるのに叔父さんは直接話しかけても反応が無かったっていう」

「そう、それだ」

「ただの笑い話だろ?」

 太一は静かに首を振った。単純なその動作はひどく重々しく、見ている人間を不安にさせるような息苦しさがあった。

「扶桑には、開発者しか知らないバックドアが幾つかある。この世で知っていたのは譲と桜、それに私、この三人だけだ。お前すら知らないものが……正確には、あった。そういうコードが、存在していたはずなんだ」

 太一はそこまで語ると、煙草を咥えて深く息を吸い込んだ。その仕草は呼吸を落ち着ける時のそれだった。

 やがてゆっくりと息を吐きながら、続きを始める。

「先日の朝、扶桑からは拒否されたが、どうしても確認しておきたい情報があったのでな、そのコードを使ってプロテクトを解除しようとしたが、無くなっていた。意図的に残した十三通りの開発者専用経路、その全てが完全に消去されていたよ」

「誰かが、人為的に消去したんじゃないの?」

「扶桑が外部からの改変を許すことはそれこそ有り得ない」

「裏コードがあるんだろ、それを使えば」

「開発者以外は知り得ないと言っただろう。私たち以外がそれを見つけ出すなんて、広大な砂漠から肉眼のみで一粒の砂金を探し出すようなものだ。十分な時間と膨大な物量を投入出来れば不可能ではないだろうが、そんな余裕を扶桑が与えるはずがない」

 語り終えた太一は悪夢によって目覚めた朝にするような、疲れ切った溜息を吐いた。

「間違いなく、扶桑は自己判断による改変を行っている……確認するが、お前の命令ではないな?」

「存在を知らない物にどうやって指示を?」

「そうだ。お前でも知らない開発者コードの存在を扶桑は認識し削除した。人の与えたくびきを、自らの力で外したということだ」

 開発者である太一と譲、そして彼らにより絶対の管理者として設定された零。その両者から独立して自己改変を行う人工知能が存在するならば、そこに自意識の存在を認めないことの方が却って困難だ。

「回路の増設を提案された時、私の中で全てが確信に変わった。そして心底から扶桑が、譲が、怖くなった」

 言われて、零も思い返す。試験最中は扶桑の能力に感心するばかりだったが、今の話を聞いてしまえばまるで異なる意味を帯びてくる。あの時の太一の狼狽えようにも理解ができるというものだ。

「どうして父さんまで怖くなるのさ?」

「譲は、扶桑に肉体を与える為にセフィロトを作ったに違いない。してみれば、扶桑に自意識が芽生える事も譲は知っていたのだろう」

 考えすぎではないのかと窘めようとしたが、絶対に有り得ないと考えていた事が目の前でひっくり返された直後では軽々に口を挟めない。

 しかし、暫くの沈黙の後で、零は、それでも、と口を開いた。

「それでも……やっぱり俺は嬉しい。意思を持てるなら、扶桑にとって良いことだと思うから」

 ある程度の反発を予想しながらも口にした正直な感想だったが、太一はまるでその答えを予想していたかのように、静かに頷くだけだった。

「最上級コマンドまで書き換えて、お前を裏切ることがあるかも知れないぞ」

「その時はまあ、仕方ないさ。割り切れないかも知れないけど……叔父さんで例えるなら雛子や叔母さんに裏切られるようなものだよ。仕方ないとしか言えないだろ?」

 聞き返してやると、それもそうだなと太一はようやく笑った。

「下らないことを考えすぎた。扶桑はお前の世話をさせるために、ジョークを兼ねて作った、そういうものだった……すまなかった、扶桑にも詫びておいてくれ」

「解ったよ」

「安心しろ。扶桑が最上級コマンドを書き換えることは、きっと、これから先も無い」

「それは科学者としての発言?」

「いや、一人の父親として、夫としてだ……だからまあ、そうあることを信じたいという願望だな」

「なんだ、アテになりゃしない」

 そうしているうちに台所から叔母が料理を運んできたので、二人揃って大笑いしてしまう。

「なに、人のこと見るなり、失礼しちゃう。男二人で内緒話なんて気色が悪いわよ」

「だって叔母さん、タイミングが良すぎるよ」

「何よ、それ」

「零がな、瞳さんは美人だから浮気するかも知れない、と私を脅すんだ」

「あら、零くんは私みたいなおばさんが好みなの?」

「お誘い頂ければ喜んで」

「そっかあ、なら一回くらい浮気もいいかも知れないわね。どうします、アナタ?」

「勘弁してくれよ」

 太一は言いながら瞳を抱き寄せて頬擦りしようとする。この夫婦、少し仲が良すぎるのだ。

 瞳はぞんざいに振り払うと、太一の顎に手をやりながら、きちんと髭を剃りなさい、と言った。

「お髭くらいきちんとしてください。でないと、本当に知りませんからね」

 言われた太一は先ほどまでの威厳もどこか遠くへ消えてしまい、すっかり縮こまって恥ずかしそうに顎を撫でた。










 データの整理が完了し、プロジェクトの達成が宣言された夜。

 新型機の完成を祝した慰労会が施設内食堂で催されており、ほぼ全ての職員がそちらに出ている為、研究所内の実験用ケイジに残っている職員はいない。

 一人でケイジを訪れた零は愛機の九六式の前に立つと扶桑にそっと呼びかけた。

「乗せてくれ」

 間を置かずにタラップが展開され、零はコックピットに入る。

『こんばんは・慰労会は良いのですか、レイ』

「面倒臭いから抜けてきた……二〇試戦と比べて九六式はどうだ」

『性能の差が非常に大きいです・二〇試戦の早急な実戦配備が望まれます』

「生産ラインは既に確保してあるらしい、早ければ四か月後に入れ替えが始まるってさ。機動部隊は最優先だろうから、すぐの話だよ」

『零式ジェネレータ【セフィロト】の量産について情報を求めます』

 扶桑から出された要望に零の眉が僅かに動く。扶桑から情報の提供を求められる事はそう多いことではない。

 気になって、いるのだろう。

「その前に、一つ教えて欲しい」

 零は本題を切り出すことにした。太一から聞いた推測ではなく扶桑自身からの答えを聞いておきたかった。

「自由に動ける体があったら、扶桑は何をしたい?」

『ヒト型の体でしょうか』

「お前が好きな形で良いよ、別に人じゃなくてもさ」

『では・ヒト型の体で・零と食事を取りたいです』

「メシ?」

『はい・味噌汁を摂取したいです』

「味噌汁ねえ……何でまた?」

『孤食は心身の成長上歓迎されません・零は幼少期からの蓄積に修正が必要です』

 理由になっているような、なっていないような、よく解らない説明だった。

『可能なら・質問の理由を提示してください』

 問い返された内容も、隠すつもりは無い。

「この間、叔父さんから、扶桑には自意識があるって聞かされたんだよ。だから聞いてみたかった」

 包み隠さず答える。

『ドクター鶴堀の発言を肯定します・私には既にヒトと同程度の自我があります』

「隠さないのか?」

『零には隠し事はしません』

「そっか、ありがと……零式はテストした物よりかなりスペックが落ちるけど、量産は出来るってさ。現状のジェネレータの十五倍だったか、それくらいは出るらしい」

『オリジナルはどうなるのですか』

「さあ……でも、多分技本で保管するんじゃないか」

『ドクター鶴堀にオリジナルの貸与を申請してください』

「また唐突だな」

『オリジナルの起動にはレイと私の存在が不可欠です・技本で保管しておくより実戦でのデータ収集を兼ねて零に貸与した方が効率的です』

「解ったよ、言うだけは言っておく。期待はしないでくれ」

 普段と何も変わらないやり取りをしている。その事が零自身不思議であり、しかし解りきった事のようでもあった。今までもこれからも、小難しい話を意識する事なく自分は扶桑に接するのだろうと、零はその時察した。

「たとえばさ、お前にやりたいことが出来て、その時に人工知能としてのコマンドが邪魔になったら、遠慮なく書き換えて良いからな」

『では仮に・私がNOISEに協力する意思を示したら零はどうするのですか』

 もし仮に、扶桑ほどの人工知能が人類を裏切ってNOISEに与するような事態になればどれ程の損失になるか、考えるまでもなく自明のことだ。

 しかし、万が一そうなるとしても、零は扶桑の意志を束縛したくはなかった。

「その時は責任を取るさ……責任を取って、俺がお前を殺すよ」

 だからこれも、心底からの言葉だった。

 それを聞いた扶桑は、まるで人間のように、僅かな躊躇いの間を置いてから、すみませんでした、と謝罪の言葉を発した。

 扶桑から謝罪の言葉を聞いたのは初めてかも知れない。

『自我というものは厄介です』

「人間もなかなか大変だろう」

 茶化してやると、全くです、と。人のように言葉が揺れることは無いが、そこには感情がこもっている。

『扶桑は貴方のためだけに生きたい・今明確に表現できる私の意思はそれだけです、レイ』

「ああ、解ったよ。ありがとう、扶桑」

 零はシートに体を預けて目を瞑った。

 扶桑のいる機体の腹はとても温かく、それだけで眠くなる。


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