第一章 扶桑・②
翌朝八時。
夏の熱気に照らされたアスファルトの滑走路が湯気を放ち、彼方の景色を蜃気楼の様に揺らしている。陽炎、しかし見晴らしは格段に良い。
コックピットの風景は見慣れた九六式のそれより子供の背丈で一つ分は高く、広く感じる。ケイジで外側から眺めていた時は多少大型化している程度に考えていたものだがと、その違いぶりに零の表情に思わず笑みが浮かんだ。
《乗り心地はどうだ、吉川少尉》
「視界が高くて、新鮮だ」
《違和感があるという事か?》
「いや、これなら上での視界がとんでもなく広がるよ、すごく良い。格闘戦に向いている」
機体が大型化しているというより、コックピット周りに余裕を持たせる構造だからこその視野の広さだろう。限界まで機体のスリム化を図らなければならないステルスという思想を排除したからこそ得られた武器だ。
《問題は無い、という事だな》
「初物特有のカタさを除けばね。シートが岩みたいで痔になりそうだ」
下らない冗談を飛ばしてみせると、無線の向こうからは研究員たちの朗らかな笑い声が届いた。硬すぎるギャラリーよりは余程に好ましい。
《オーケーお喋りは終わりだ。好きなタイミングで出せ、計測はもう始めている》
叱る風ではなく、促すように太一が言う。
「了解、発進シークエンスに入る。一番から五番の外部点検作業および六番から十一番のリアクター活性化工程は完了、人員退去確認進路上障害物無し、システムオールグリーン、リアクター接続・イグニッション――」
普段であれば扶桑に任せてしまう作業だが今回は試験飛行、一つ一つの工程を丁寧過ぎる程に踏みしめて、どれだけ微細なものであっても違和感が生じることがないか、確かめていく。
「今日は全てマニュアルで飛ぶ、後で反省用の教材にするからログ取り頼むぞ」
エンジンの暖機が済むまでのわずかな間で扶桑に指示を出しておく。
『了解しました、レイ』
扶桑が応えて間もなく、始動確認から五秒弱でエンジン回転数がアイドリング状態へ到達した。九六式に搭載してあるものより二秒近く早い。勿論カタログスペックは事前に知っているが実際に乗ってみると化け物じみて感じた。
「エンジン、これが量産出来るの?」
《ああ、大したものだろう》
言葉面は自慢気にしているが、その口調がいかにも当然であると言っている太一が頼もしい。飛ぶ前から性能が段違いである。
零は興奮を抑え込むように、ゆっくりと息を吐いてから続けた。
「必要回転数確保までカウント3・2・1・ブレーキ解放、滑走開始――」
エンジンを全開まで働かせて機体を急激に加速させる。肉体を操縦席へと押し付ける強烈な圧力とは裏腹に、コックピットの外を高速で流れていく景色からは、意識が空へと吸い込まれていくような、ひどく心地の良い錯覚を覚える。
「――推力確保、離陸する」
操縦桿を引き上げてから一呼吸の間を置いて、ふわりと空へ浮かぶ雲のように柔らかな一瞬。その瞬間が零はたまらなく好きだ。
脚部を収納しながら、機体は見る間に高度を上げていく。
スーパークルーズ状態からの急降下試験では高度一万メートルから一気に二千へ逆落とし。いかに慣性・与圧への制御が働いているとはいえ肉体への負担は尋常ではなく、呻き声が無線に入らないようにするので必死だ。
《次だ、空戦フラップおよび各部スラスターテストに入る。インメルマンターンからスプリットSの連続機動十回一組、高度を保って十セット繰り返してくれ》
「了解」
平行飛行をしながら一定間隔でループ機動を行い、頂点部分で機体を半回転捻って再度機体を水平に戻す。旋回時のフラップ操作やスラスターの吹かしに少しずつ変化を加えながら同じ動作を延々と繰り返すテストだ。
蛇のようにうねりながら高度の上下を続ける機体は管制室の面々に綺麗な八の字を見せていることだろう。
零は平然と応えてみせたが、その実苦笑を通り越して呆れていた。いくら試験飛行とは言え要求の一つ一つが無茶苦茶過ぎた。並のテストパイロットならとっくに潰れている内容だ。
操縦桿を傾け続ける零に、ふと扶桑の声が届いた。
『このやり取りは管制室には届きません』
そう前置きしてから、
『ドクター鶴堀の指示は土浦航空隊に対する配慮であると推測されます、レイ』
扶桑らしからぬ気遣いに零は今度こそ苦笑しながら、解っていると応えた。
土浦航空基地は飛行学生の訓練を主な任務としており、エース級の技量を持った搭乗員が教官として数多く配属されている。その敷地内に技術研究所が置かれているのは無論偶然などでなく、新型機の開発には必須となる【ずば抜けた技術を誇るテストパイロット要員】として、彼らの存在をアテにしている為だ。
しかし、今回のテストパイロットは零。彼らにしてみれば普段は洋上で好き放題に暴れまわっている若造に出番を奪われた形である。いかに実戦のエースが相手でも、二十歳そこそこのガキにメンツを潰されたのでは教え子である飛行学生に合わせる顔が無いという彼らの立場もまた当然だ。
なればこそ、零はこの試験飛行でそのポテンシャルをフルに見せる必要があった。それは彼らへの礼儀である。ニュースで報道される得体の知れない撃墜王としてではなく、第一航空戦隊飛行隊員としての、最前線部隊でエースと呼ばれる本物の技量で、ここにいる全ての人間を黙らせなければならない。
万一ここで零が侮られるようなことになれば、所属部隊の看板に泥を塗ることにも繋がってしまう。どのような指示も完璧にこなさなければならないという零の覚悟は固かった。
『これは試験飛行です、レイ』
「解ってる。バイタル計ってみろよ、頭の中は冷えているさ」
言い合いながら続けていると、管制室の太一から通信が入る。
《使用感覚はどうだ》
「数も可動域も増えて細かい調整が効くようになった、格闘戦での引き出しが大幅に増えるね。マニュアル操作だと多少敏感すぎるきらいはあるけど馴れればこれぐらいの方が良い。配置箇所に関する意見を後で出すくらいかな」
《そうか。この後は主翼の確認に入る、休憩は無しでこのまま頼む》
手短なやり取りを終えると挨拶も無しに通信は終わった。心なしか、テストの序盤で聞かれていた無線後方の明るい雰囲気が消えてしまったようにも感じられた。
あまりのシゴキぶりにドン引きされているのではないだろうか――などと下らない事を考えられる程度には、零の余裕も残っている。
その後もテスト項目は順調に消化され、予定では模擬戦前の最終工程となっている主翼可変機構の動作確認に入った。
鳥の骨格構造そのものを参考に配置したという片翼七・全十四の可動箇所が、戦闘機動に対応可能な速度で変形する、空戦フラップの大幅な進化拡大版とも言える革新的な技術だ。
向かい風を受け止めて高度を稼ぐ鳥のように、直進飛行の最中で思い切り主翼を風に立てて大空へと浮き上がる。或いはその逆に、落下エネルギーを効率的に速度変換するために翼を細く鋭く折りたたむ――様々試しているだけでも、航空機と言うよりはグライダーのような、自らが鳥になったかのような自在性、ある種の快楽的な操縦感覚がある。
《調子はどうだ?》
「最高!」
太一からの通信に、零はこれが試験飛行である事を忘れて、子どものような感想を返していた。
《操作性が良いということだな、吉川少尉》
窘めるような言葉に我に返る。
「失礼した……操作性については実際の戦闘機動で試す必要性がある」
《オーケー、それではドローンとの模擬戦に入る……予定だったが、プランの変更を依頼したい》
「詳細をどうぞ」
《飛行教導隊から、たった今、アグレッサーとしての参加申し出があった》
土浦航空隊の教導隊員が【アグレッサー】即ち仮想敵機として模擬戦の相手を務めるという内容。
口ぶりから察するに、太一にとって面白い事態では無いようだった。
研究者であり技術屋である太一は、予定から外れた行動を好まない。それでもこのように提案してくる辺り、扶桑が先ほど言っていた〝教導隊への配慮〟という表現は、それなりに的を射たものだったのだろう。
「こちらは問題ないよ」
管制室とのやり取りを終え、模擬戦に備えて暖機をしている最中に通信が入った。
《土浦飛行教導隊飛行長、宮本肇(ミヤモトハジメ)中佐だ》
「第一航空戦隊加賀飛行隊、吉川零少尉です。中佐の申し出に感謝します」
《いや。突然の依頼を受けてくれた事、こちらこそ礼を言う》
そう言うと、宮本はやや迷ったような間を置いた。しかしやがて吹っ切れたように笑うと、如何にも爽やかに続ける。
《正直な話、少尉の飛行を見て火が付いたというのが本音だ。土浦教導隊の飛行長としてでなく、一介のパイロットとして、メンツをかけてやらせて頂く。恥をかかせることになるが、すまないな》
零は面食らった。だがしかし、相手が本音を出したのならば、体裁を取り繕うべきではない。本音に本音で返そうとすると、自然と表情が実戦さながらの険しいものに変わった。
「光栄です。全力で挑ませていただきます」
どちらの技量が上なのかという競争意識は飛行機乗りの本能だ。その闘争心を偽る事は出来ない。
そうして話しているうちに、模擬戦開始時刻の二分前となっていた。
「時間を頂いてしまいました。暖機が足りていないでしょう、管制室に連絡して開始を遅らせます」
《もう十分動けるが》
「ご謙遜を、まだ足りていないように見えますが」
上官に対する応答ではないが、宮本も全てを察したらしい。
《あと五分、だな》
そちらの勝ち目が無くなるぞと、口調が匂わせていた。
零は上官の苛立ちに気づきながら、敢えて無視する。
「了解、管制室に報告する」
《了解》
余裕綽々で応じてみせた零の態度に、宮本は既に一触即発の雰囲気だった。声色が重々しく尖っていくのがはっきりと解る。
やり取りを聞いていた管制室からはこれは試験飛行であると釘を刺されたが、最早二人の耳に届くはずもない。
開始時刻を迎えると、管制室からの指示が出たのとほぼ同時、しかし正確には聞くより先に動き出していたのだろう。相対距離八〇〇〇から、両者ともに模擬戦空域の中心点を目指して一直線に加速。ヘッドオン状態での交差タイミングがそのまま模擬戦開始の合図となり、以降本格的な戦闘機動へと入る。
先手を取ったのは零だった。交差後敵機へ進路を反転させる旋回機動で速度を落とし過ぎずかつ旋回半径を最小単位に狭めるように新型空戦フラップを操作する。揚力コントロールの無数におよぶ組み合わせの計算を完璧にそして一瞬でこなし、その上機体を完全に制御するという神業的な操縦をいとも容易くこなしてみせる。
そうして得たコンマ数秒のゲインで、僅かに遅れ、未だ交差後の機動転換を終えていない宮本の機体を捉えた。
しかしこの動きを察知した宮本機は機動転換を突如として放棄、横滑りするように自機の進路を強引にズラし背後を取られまいとする。
突如目の前で行われた見慣れない機動に零の反応が一瞬遅れた。
無理もない。NOISEとの実戦ではやる事はあってもやられる事が無い高等技術だ。対人戦の経験が少ない零を手玉に取るような、ベテラン教導隊員ならではの妙技。出だしに築いた僅かな有利は吹き飛ばされ一瞬で後方に回り込まれる。
「クソがッ、ロートルの分際で」
吐き捨てることで頭の中を冷静に保つように、心中で言い聞かせながら回避機動に入った。
『戦闘AIの起動を推奨します、レイ』
声を出した扶桑を零は怒鳴りつけた。
「手を出すな! 五分じゃなくなる」
『アグレッサーは少なくともフラップおよび主翼可変の制御について自動管制を使用しています』
「相手にはお前がいない、フソウもない」
『新兵装のフィードバックが完全でない現状ではフソウと十九式空戦システムのスペックは誤差範囲です』
「とにかく絶対に手を出すな、命令だ」
『了解、スリープモードに移行します』
不貞寝を始めたような扶桑の反応をよそに、再び回避行動に全神経を集中させる。
この模擬戦は全ての動作をマニュアル操作するべきだと、零は考えていた。
一つは実戦時の不測の事態を想定する事はテストパイロットとして当然であるという職務に対する責任感から。そしてもう一つは【人工知能扶桑】を独占する以上、他の誰でもない、自身こそが飛行員として最上の技術を持っていなければならないという意識から。
ここで敗れる程度であるならば扶桑と空を飛ぶ資格は無い。
後方の宮本機からは幾度となく訓練用空砲が放たれているが模擬戦用シミュレーターではまだ有効打判定が出ていない。
しかしこのままでは時間の問題だろう。実際、照準は着実に修正されてきている。
どうにかして体勢を入れ替えなければならないが、流石はエース級が集う教導隊の飛行長である。生半可な揺さぶりは即座に見破られ、却って動きを逆用される危険性すらあった。
純粋な技量では間違いなく相手が上だ。小細工が通じる相手では無い。
「やるか」
自身を奮い立たせるように呟くや否や、零は左右への揺さぶりを完全に止め、推力増強装置を最大出力で起動した。
瞬間、生み出された推進力で吼えるように機体が震える。
リアクター内で超圧縮された空気と燃焼剤の混合気体に点火し、バーナーのように噴射することで爆発的な推力を得るのだ。
無論単純な加速で引き離せるほど容易い相手ではない。宮本機も直ぐさまバーナーを焚いて速度を上げる。
しかし零は意に介さず、ひたすらに速度を上げ続けた。荷重で肉体が押し潰されそうになってなお、機体制御が困難になる限界速度まで、徐々に機首を上へ向けながら加速する。
程なく、機体はカタログスペックを大きく越えた文字通りの限界速度に到達し、零は背後の宮本機を一度だけ確認した。
――ぶっつけだが、なるようになれだ。
そんな思いでバーナーを勢いよく切ると、エンジン出力を保持したまま推力を減衰させるために排気ノズルを全開放、同時に空戦フラップと主翼をエアブレーキ(空力による揚力抵抗)が意中の方向へ最大限にかかる形へ急速変形させる。
機体は、やり慣れた九六式とは桁違いの勢いで、急激な失速を引き起こした。
荒れ狂う揚力の激流は大渦となって機体を飲み込み、鋼鉄の翼が千切れんばかりに震え出す。空中分解しそうな機体の振動に、流石に空力を掛け過ぎたか、などと反省する間は無い。主翼前部に配置されている姿勢制御スラスターを右翼だけ全開で吹かして推力としバランスを崩した機体が捻れる方向を無理矢理に固定、駒のような勢いで回転しながら宮本機との相対高度差を一瞬で入れ替える。
目の前で繰り広げられた異常機動を理解できないまま、零を見失い追い越していく宮本機の影を視界の隅で捉えつつ揚力を再調整。主翼が風を掴む感覚は瞬時には戻らないが、揚力調整と並行して、スロットルを一杯に構え排気ノズルを収縮、エンジンからの推力を最大限に活用する事で機体を立て直す。
コンマ数秒の世界だが、機体のコントロールを取り戻す頃には宮本機が離れ過ぎていた。
二度は通じない命がけの一発芸をしかけたにも関わらず、即時撃墜のポジションを取り逃した。即座に敵僚機のフォローが飛んでくる実戦であれば事実上の敗北だ。
しかしこれは模擬戦である。
「調子に乗り過ぎたな」
反省を吐き捨てながら再度バーナーに点火、最大加速で後を追う。即時撃墜は取れなかったが体勢の反転には成功した。これからは零が宮本機を追い回す番だ。
幸いにして宮本機の姿は直ぐに捉えることができた。機銃の発射装置に手をかけ、背後から二撃、三撃、と重ねていく。
しかしその時、機内に警告灯が灯った。
機体の異常を示す赤ではなくダークブルーのもの。管制室からの強制終了命令だ。
管制室に通信を繋ぐと、頭を抱えた太一の姿が映った。
「中止の理由を教えて頂きたい」
何か異常事態が発生したのかと、零も不安を覚えたが、どうもそうではないらしい。
《データは十分に取れた。これ以上のテストは危険が伴う恐れもある、よって中止だ》
「何か機体に不備でも?」
《それは違う、先も言ったがデータは十分に取れた。これ以上はパイロットに不必要なリスクを負わせるだけという意味だ》
取り繕った言い方に不満が残らなかった訳ではないが、命令として聞き入れるよりない。
《両機が着陸後昼食休憩に入る、午後は新型ジェネレータの連動試験だ》
「了解」
通信を終えると、煮え切らない思いが溜息になって溢れ出た。
零が食堂券売機の前で迷っていると、背後から、オススメはカツ丼だ、と声がした。
「近所の親父がブランド品種の豚をやっていてな、文字通りの産地直送だ」
声と共に伸びてきた手が券売機に紙幣を押し込むとカツ丼のボタンを押した。振り向くと四十代前半といったところか、見知らぬ男が立っている。
順番くらい守りやがれと文句を言おうとした零だったが、
「ほれ」
男から今し方購入したカツ丼の券を押しつけられ、出方を失ってしまう。
男は気に留める素振りを見せることもなく、数枚の硬貨を券売機に押し込むと再度カツ丼のボタンを押し、同じように零に押しつけた。
「俺の分も取って来い、席はあそこだ」
窓際の一角に置かれたテーブル席を指して言い残すと、さっさと行ってしまう。
「何だアイツ」
苛立ちはするが、どうやら昼食を奢られた事は間違いないようだし、下手をすれば上官という可能性も高い。無駄な騒動を起こす訳にもいかず大人しく従うことにした。
カツ丼を持って指定された席へ向かうと、男は暢気に端末で活字ニュースを読んでいた。
「どうぞ」
多少乱暴に音を立てて置いてやると、気にする風でもなくありがとよと返される。
零は無言で男の向かいに座った。
窓から外を眺めると飛行場が一望できるテーブル席であることに気が付いた。周りの反応をそれとなく伺ってもどうやらこの男の指定席なのだろう。
間違いなく上官、基地内でも結構な役職に就いているらしい。
「ご馳走様です、お先に頂きます」
「しっかり食べろ。午前中は御苦労だった」
「見ていらっしゃいましたか?」
分厚いカツにかぶりつきながら零が尋ねると、男はそれまでの落ち着きが嘘のように目を見開いて驚いている。
「お前、俺が誰だか解ってないのか」
「はあ……失礼ながら土浦は初めてなもので。自分は皇国海軍第一航空戦隊加賀飛行隊所属、吉川零少尉です」
零が促すように自ら名乗ると、
「知ってるよ、バカヤロウ。ほんの一時間も前に名乗られた」
男はため息を吐きながら言う。
「はあ?」
言われて素っ頓狂な声を出した零に男は今度こそ呆れた顔を隠さなかった。そしてやおら勢いよく立ち上がると、食堂中の視線を敢えて集めるようにしながら、まるで上官に対する時のように、整然とした敬礼を付けて叫ぶ。
「軍務省所轄土浦航空基地飛行教導隊飛行長、宮本肇中佐であります……宜しいか、少尉殿」
零は、口の中に突っ込んでいた米粒とカツを危うく噴き出すところだった。そして全身の血の気が引いていくのを確かに感じながら、殆ど反射的にその場に立ち上がり、久方ぶりの敬礼を返しながら叫ぶ。
「大変失礼いたしましたッ!」
「腕の悪い模擬戦相手は記憶に残らんか?」
「決してそのような……あの時はパイロットスーツを着用されていたので、その、顔までは……大変失礼いたしました!」
そうして暫くの重い沈黙。
やがて、零の慌てぶりに満足したのか、宮本は強面を崩して大笑いする。
「早く食え、冷めるぞ」
どうやらからかうのは終わりにしてくれたようだった。
「はいッ、頂きます!」
「美味いだろ」
「はいッ、美味しゅうございます!」
「普段通りにしろ。俺も昔は艦上勤務だ、そっちの流儀も知っている」
「はあ、了解しました」
苦笑する宮本に零も緊張感が抜けてしまい、カツ丼を思い切り掻っ込むことにする。
丼を半分ほど開けると、味噌汁で口の中の物を流し込んでから、零は尋ねる。
「中佐殿は――」
「――名前で呼べ」
「宮本中佐も空母に?」
「ああ。二十年以上も昔の話だがな。NOISE戦役二年目から、かれこれ六年近くか。母艦はずっと六代目翔鶴、思い入れが深くてな、四年前の退役式にも行ったよ」
何気なく語られた経歴だったが、話を聞いていた零の表情が驚きに変わる。
「失礼ですが、年齢は?」
「今年で四十九になる。流石に、もう引退だな」
仮に四十前半でもあの高機動に着いてこられる時点で驚異的だが、既に五十を目前に控えているという。化け物じみた能力だ。
「五十手前であの機動ですか……私も、まだまだですね」
零の心中が宮本にも伝わっているのだろう、不躾な発言にも苛立つような素振りは見せず、静かに首を振るだけだった。
「いや、さっきの模擬戦で痛感したよ。今の前線に出たら俺は確実に落とされる」
「まさか、有り得ませんって」
「随分偉そうだな、この野郎」
興奮して話す零に宮本も苦笑しながら返し、そうして一呼吸の間を置いてから、
「それでも、確実に落とされる」
と、もう一度繰り返した。
「当時は連中も平凡な物量だった。会敵するのは精々こちらと同数程度、技量もてんで低いから、こっちのパイロットは落とされる心配なんて誰もしてなかった……今と違って、平和な戦場だったのさ」
「平和な戦場、ですか」
「少尉が最後に見せたあの機動。あれは、自分の命を弾丸代わりに撃ち出せるような人間じゃないと、とても真似出来ない」
随分と大袈裟に語るものだと冷ややかに聞く半面、戦場を平和だったと表現した事を思い返して妙に納得する部分もあった。零と宮本ではNOISEとの戦いに対する認識の根本が違っているのだ。
「今の前線は、生への執着を捨てられる人間でなければ生き残れない、そういう場所なのだろう。だから、全盛期でも俺には無理だ」
静かにお茶を啜りながら、宮本は断言する。
「所長が止めた理由もそれだろう。あの機動は、後方勤務には少々刺激が強すぎる」
零はカツ丼を掻っ込みながら、宮本の話したことを、内容に共感するのではなく、まるで別の方向から考えていた。
NOISE研究の第一人者である太一であっても、宮本と同じように、NOISEとの戦いを旧来的な文明間戦争と同じ構図で捉えているのだろうか。
そうだとするのなら、零や多くの前線人員がNOISEとの戦いに直感的に抱いている、ヒトという種の存続をかけた闘争という認識は誤りなのだろうか。
或いはかつて起こった単純な文明間戦争の当事者たちも、同様の感じ方をしていたのだろうか。【負ければ全員死ぬのだから、自分ひとりの生死など気にしたところで意味が無い】と、そんな風に感じていたのだろうか。
そんな事を考えながら、零はカツ丼を掻っ込んだ。
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