第41話 パガニーニ

 玲央さんのお爺ちゃんは上機嫌だった。昨年までは玲央さんと伊集院先輩の夫婦漫才みたいな掛け合いを楽しんでいたらしいんだけど、今年はそこに二階堂君とあたしが加わって「いっぺんに孫が四人に増えた」なんて言ってる。


 伊集院先輩は赤ちゃんの時からの付き合いだから、玲央さんのお爺ちゃんのことを自分の祖父のように「お爺様」って普通に呼んじゃってるし、玲央さんのお爺ちゃんも伊集院先輩を「桜子」って呼んでる。

 それだけじゃなくて、伊集院先輩が「二階堂君も柚木さんもお爺様って呼べばいいと思いますわ」とか言い出して、お爺ちゃんまで「それで行こう」なんて悪乗りしてる。

 二階堂君に至っては、初対面なのに「いいですねー。それじゃあ自分も名前で『大地だいち』って呼んで貰っていいですかー、小っちゃいけど」って笑いをとってる。確かに大地って名前の割に小っちゃい。145センチあるかな?


 結局、四人はみんなで『お爺様』って呼ぶことになって、あたしたちもこの家では名前で呼び合うことになった。って言うかあたしはみんなと違って家政婦の立場だから『大旦那様』って呼ぶのが筋だと思うんだけど。


 それに伊集院先輩を桜子さんって呼ぶなんて、明日香や葵が聞いたら卒倒するよ! それだけじゃない、あの伊集院先輩があたしのことを菫さんって呼ぶなんてありえない。大変な世界に首を突っ込んでしまった。


 そのあとお爺様がお茶を点ててくれたんだ。

 ここに来る前に玲央さんが「数寄屋袋を持って行きましょう、使う事になりますから」って言ってた意味がようやく分かった。毎年恒例らしい。こんなところで小嶋さんに感謝することになるとは!


 今日は二階堂君……じゃなくて大地君が正客、桜子さんが次客、あたしが三客、玲央さんが末客の席に着いた。お爺様はやはり大地君と話したいんだろう。

 お茶を点てている間もお軸やお花のことで二人で盛り上がっているところを見ると、大地君は相当の猛者と見た。なにしろ文化祭での桜子さんの黒天目茶碗の話まで引っ張り出してきて、お爺様を大笑いさせたのだ。

 しまいにはお爺様が「大地を玲央の嫁に欲しい」などと言い出して、みんなで大笑い。二階堂家どうなっちゃうんですか。


 一通りお茶を楽しんだ後は、「あとは若い者同士で楽しんで行きなさい」ってお爺様は引っ込んでしまった。散々みんなを盛り上げて引き際は潔い。この気配りができるから手代木は大きな家になったんだろう。


 そして志乃さんだ。彼女はさりげなく部屋の隅にいて、こちらの話には全く首は突っ込んでこないのにちゃんと話を聞いていて、必要なタイミングで必要なものを出してくる。凄すぎる。これがデキる家政婦なんだ。彼女を見てると家政婦道を極めたくなってくる。

 まあ……あたしと目が合うたびに胸元で小さくガッツポーズをしながら、口の形で「ファイトっ!」って言ってるのが気になると言えば気になるんだけど。


 その後が、あたしにとって未知の世界、彼らにとって普通の世界だった。桜子さんが「サロン行きましょ」と言い出したのだ。その後に続く会話があたし的には漫画の世界にしか存在しないものだったのだ。


「わたし、今日ヴァイオリン持ってきたの。偶には玲央と一緒に演りたいわ」

「僕はこの頃ちっとも楽器に触っていませんから無理ですよ」

「そんなこと言わないで。パガニーニなら行けるでしょう? ね?」


 あの桜子さんが玲央さんに甘えてる。なんて可愛いんだろう! 同性のあたしでもドキッとしてしまうのに、これで落ちない玲央さんってどうかしてるよ。

 結局、大地君にも「聴きたい」と言われ、渋々了承した玲央さんとともに、あたしたちはサロンに移動した。しっかりお茶の準備を持ってついてくる志乃さんが、それはそれは嬉しそうにしているのが気になる。


 っていうか! サロンってなんですかこれ、大きなグランドピアノが置いてあるのは何故なんですか、一般家庭に普通に置いてあるものじゃないですよね。

 ぽかんとするあたしと「いいピアノだねー」ってご満悦の大地君にソファを勧めてくれた玲央さんに、志乃さんが大きなケースを持ってきて手渡す。中から出てきたのは飴色の綺麗なチェロ、多分。あたしにはチェロとコントラバスとナントカの区別がつかない。

 桜子さんも持参のヴァイオリンを出してきて、二人で音を合わせ始めた。


 目の覚めるような青紫の振袖に梔子くちなし色の帯。色白な桜子さんによく似合っている。玲央さんも羽織を脱ぐとピアノの椅子に腰かけて、チェロを構えた。


「玲央君ちょっとG線ピッチ高いねー」


 いきなり大地君が謎の呪文を唱えた……ようにあたしには聞こえた。


「大地君、音楽もやってらっしゃるの?」

「うん、まあ、軽ーく嗜む程度ねー」

「大地君は器用ですからね、何が飛び出してくるか僕にもわかりませんよ」


 それ以前に、袴姿でチェロ弾くの? 振袖でヴァイオリン弾くの? なんていうあたしの浅はかな素人考えをあざ笑うかのように、二人は普通の顔で弾き始めた。


「パガニーニ『ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲第三番』だねー」


 なんでそんな風にスルッと曲名が出てくるの? やっぱり大地君、侮れない。

 でも、それより、それよりっ!


 玲央さんがカッコ良すぎる! 何なのこれ、何の罰ゲーム、こんな素敵な玲央さん見せつけてどうしろっていうんですか?

 弓を動かすたびに、ゆで卵のような顔に落ちる前髪が揺れる。細長い指が弦の上を滑らかに滑って行く。そんな彼を見ているだけで、心がざわざわと落ち着かない。


 今まで気づかなかったけど、この人、地味にいろいろスペック高い!


 あたし一人でこんなものを堪能していいんだろうか、罰が当たったりしないだろうか。

 一人でお庭の錦鯉みたいに口をパクパクとしている間に演奏は終わり、「ブラボー!」って拍手をする大地君の横で相変わらず呆けていると、玲央さんがこちらに視線を送って来た。その目は「仕事しろ」って言っていた。

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