第40話 お正月
ありえない。これがお金持ちの考えることなのか。
あたしは玲央さんの家政婦で、正確には居候で、ただのお荷物でしかないのに、あたしにポーンと買ってくれた振袖、広げてみたら腰が抜けそうな代物だった。
これ、着物だけでも帯だけでも、それぞれ七桁するよね? ポンと買えるものじゃないよね? 錦鯉何匹分なんですか? これ買ってくれるなら借金無かったことにして貰えませんか? と言える筈も無く。
それを着て、正月二日は手代木邸を訪問したのだ。もっと厳密に言うと、手代木邸でお手伝いさんに着つけて貰ったんだ。
このお手伝いさんが凄い。志乃さんって言うアラ還のおばさんなんだけど、着付けはできる、栄養士・調理師の免許も持ってる、お茶もお華もこなす、その上とんでもない達筆。玲央さんが生まれたころからずっと手代木家にいるらしい。
その志乃さんが玲央さんに相談されて選んだのがこの振袖。いくらなんでも奮発しすぎでしょ。
「菫さんはこの
とかなんとか言いながら、髪をアップにして綺麗に結い上げてくれたんだ。
「きっと桜子お嬢様は正統派でいらっしゃるでしょうから、菫さんはアシンメトリーに結い上げて、ちょっとモダンな仕上がりにしましょうかねぇ。坊ちゃまは桜子お嬢様にはご興味がないご様子ですし、ここは一つ菫さんに頑張っていただきませんと」
「は? え?」
「いえいえ、なんでもないんでございますよ。はい、お
「はい、お願いします」
そうか、伊集院先輩と大地君を急接近させる作戦を、志乃さんは知ってるのか。
「ね、これってあれですよね、シルクなんですよね?」
「お着物に『シルク』という言葉は使いませんのでね、正絹と仰ってくださいましね」
あ、そうだった。ショーケンだった。
「ありがとうございます。あたし、そういう常識全然知らないから、志乃さんに教えて貰うと助かります。あたしが知らないことで玲央さんに恥をかかせちゃうわけにはいきませんから、もし変な事言ってたらすぐに教えて貰えますか?」
「大丈夫でございますよ。この志乃、坊ちゃまが赤ちゃんの頃からお仕えしておりますからね、なんでもご相談下さいましね」
ああ、なんて素晴らしい人なんだろう。頼りになることこの上ない。
なんやかんや言いながら、足袋履いて、「菫さんは細身でいらっしゃるから」とかなんとか言いながら肌襦袢の上からタオルを腰のあたりにいっぱい巻かれて、長襦袢とやらを着て、なんかもうお腹いっぱいです。
「今日は桜子お嬢様から菫さんのお着物の色をお尋ねいただいたんでございますよ。菫さんが濃紅のお召し物だとお伝えしましたら、桜子お嬢様は青紫のお着物をお召しになられると仰ってくださいましてねぇ。立派なレディにお育ちになられて。二階堂家の坊ちゃまも大変優秀な方ですから、よくお似合いでございますねぇ」
やっぱりそうなんだ、志乃さんはあの二人をくっつける作戦を知ってるんだ。お喋りしながらも着付けの手が一秒たりとも止まらないのは凄い。こんなにたくさん紐結んで、訳わかんなくならないんだろうか。
「桜子お嬢様が二階堂家の坊ちゃまとお話を進められれば、玲央坊ちゃまもそろそろ身を固める方向でお考えになられるかもしれませんしねぇ。坊ちゃまも満更でもなさそうですし、この振り袖姿の菫さんをご覧になれば、あの堅物の玲央坊ちゃまと言えどズギューンでございましょう? あら、余計な事を申し上げましたねぇ、お気になさらず楽しんでくださいましね、ファイト!」
ズギューンって言いましたか、志乃さん? ファイトって何ですか?
思いがけずノリのいいお手伝いさんだという事は分かったけど、何か彼女には特別な思惑がありそうな。
支度が終わって玲央さんの待つ部屋に案内して貰うと、凛々しい袴姿の彼がガラス越しに庭を眺めていた。
「坊ちゃま、菫さんのお召替えが済みましたよ」
志乃さんが声をかけると、玲央さんはあたしを振り返って……固まった。
「あの。どうですか、変じゃないですか?」
って聞いてんのに、玲央さんは何も言ってくれない。イマイチだったのかな。
後ろでは「ただいまお茶をお持ち致しますね」って志乃さんが部屋を出て行く。
何か言ってください。なんで黙ってるんですか。『馬子にも衣裳』くらい言って貰えませんか。
玲央さんは文句なしに素敵ですけど、あたしはこんなの着慣れてないから自分で似合ってるかどうかわからないんです。
「あの、変ですか?」
「ちょっと……これは非常に問題が。二階堂君には見せられませんね……」
えーっ、そんなに酷いですか? そんなに似合ってないですか? 志乃さんは似合ってるって言ってくれたんだけど。ちょっとショックです。
「こんな綺麗な菫さんを二階堂君に見せたら、桜子じゃなくて菫さんに目を奪われてしまうじゃないですか。計画がぶち壊しです」
はい? え? はぁぁぁぁああ?
「いやそれ、玲央さんは伊集院先輩を見慣れちゃってるからですよ。普通に考えたら、一万人のうち一万人が伊集院先輩に目を奪われますから! 玲央さん、美的感覚麻痺してますよ!」
って思いっきり(我ながら哀しくなるほど)否定したら、彼は羽織紐の房を弄びながらブツブツと独り言を繰り出した。
「まあ確かに桜子はいつも近くにいるので、その美しさに関してはゲシュタルト崩壊を起こしているかもしれません、確かに一理あります」
難しい言葉使わないでください。あたしまだその言葉習ってません。
「ちょっと見慣れておく必要がありますね」
勝手に一人でブツブツ言ってたかと思ったら、いきなりあたしを凝視し始めた。
ってちょっとそれはないでしょ。こんな袴姿の素敵過ぎる玲央さんに真っ直ぐ見つめられたら、視線のやり場に困るじゃないですか。やだ、もう、どうしよう。
って思っているところにノックの音が聞こえてドアが開いた。
「坊ちゃま、桜子お嬢様が……あらあらあら、お取込み中でございましたか、これはお邪魔致しまして」
「あ、志乃さん、これは違うんです」
「はいはい、桜子お嬢様と大地お坊ちゃまがお見えになりましたんで、あちらにお茶をご用意しましたからね。一段落ついたらいらしてくださいましね」
一段落って何!
「菫さん、ファイトでございます!」
胸元で小さくガッツポーズをする志乃さん、違うんです、違うんですってばぁ!
「菫さん、とても綺麗です。見違えました。ですがあなたにはミッションがあります。わかっていますね?」
そうだった、桜子さんと大地君をなんとかしてくっつけなきゃならないんだった。
「は、は、はい、了解ですっ」
玲央さんはニヤリと笑うとあたしの手を取った。
「桜子と二階堂君がお待ちです。行きましょうか」
途中経過がビミョーにズレてはいるものの、志乃さんの思惑と玲央さんの思惑は結果として同じ方を向いているから良しとしよう、と自分に納得させて、あたしは玲央さんについて行くことにした。
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