第17話 お魚の煮つけ

 すっかり遅くなってしまった。吉本君との打ち合わせに夢中になってて、時間のこと忘れてたからなぁ。もう玲央さん帰ってるだろうな。お腹減らして待ってるかな。……あたしをじゃなくて夕飯をっていうところが残念だけど。


 そういえば玲央さんのクラス聞くの忘れてた。玲央さんだって同じ学校なんだから文化祭ではクラスの出し物がある筈だし。その関係で遅くなることもあるだろう。玲央さんの方があたしより遅かったらいいんだけど。


 そんなことを考えながら玄関ドアを開けると、中から灯りが漏れてきた。ああ、やっぱり玲央さんが先に帰ってた。


「ただいま……遅くなってごめんなさい」


 急いで靴を脱ぐと、いつものようにパソコンとにらめっこしていた彼がこちらに顔を向けた。


「おかえりなさい」


 え? あ? うそ!

 おかえりなさいって言われた!

 何これ、すっごく嬉しい!


「たっ……ただいまっ! ただいまです! あの、あの、玲央さん」

「はい」

「あのっ『おかえりなさい』って言われるの、凄く嬉しいですね! あたし鍵っ子だったから、なんか、なんかとっても嬉しいです」


 何言ってんだ、あたし。もーやだ恥ずかしい。

 だけど玲央さんは優しい目をして笑ってくれた。


「実は、僕も昨日嬉しかったんです。菫さんに『おかえりなさい』って言われて衝撃的でした。だから今日は僕が言おうと思って、それで急いで帰って来たんです。菫さんより先に帰っていないと言えませんから」


 え? そのためにわざわざ急いで?


「あ、あの、ありがとうございます。嬉しいです。すぐお風呂入れます」


 なんだか嬉しくて恥ずかしくて訳わかんなくなっちゃって、しどろもどろになってる。


「入れておきました。押すだけですし。菫さんが朝のうちに洗っておいてくれるので助かります」

「すいませんっ、玲央さんにそんなことさせて。すぐご飯作ります」

「待って」


 慌ててベッドルームに着替えに行こうとすると、玲央さんに強い口調で引き留められた。


「僕たちは確かに雇い主と家政婦です。ですが、一緒に住んでるんですから、僕が勝手にやったことまで菫さんが負い目に感じることはありません。菫さんはちゃんとやってくださってますから」


 あたしには「ありがとうございます」って返すのが精一杯だった。


***


「お魚の煮つけ、二年ぶりです。最後に食べたのは母が亡くなる一週間前だったと思います」


 玲央さんは鯖の味噌煮を目の前に、感慨深げにそう言った。


「これと同じだったんですか」

「いえ、金目鯛の煮つけでした。僕が魚の煮つけが好きなもので、母がよく作ってくれたんです」


 遠い目をしながらぽつりぽつり語る玲央さんが、何故かとても幼く見えた。口調はいつも通りなのに何故だろう、彼がその頃に戻っているんだろうか。


「僕は肉よりは魚の方が好きで、母もそれを知っていたものですから、魚が食卓に上がることが多かったんです。僕が中学に上がるまでは一緒に住んでいたので、よく祖母の作った根菜の煮物と一緒に夕食に並んだものです」

「お母さんとお婆ちゃん、仲良しだったんですね」

「ええ、そうですね。祖父の家は大きな家だったので、使用人もいましたし……外の人間が絶えず出入りしていたので、母の気が休まらないだろうからと父が家を建てようと計画したらしいんです。その時母は、年齢層の幅の広い人たちと一緒に生活する方が僕のためにいいと言って、祖父母と一緒に住むことを優先したそうです」


 お魚のせいだろうか、今日の玲央さんはなんだか饒舌だ。鯖をつつきながらもずっとお喋りしてる。


「それでお婆ちゃん子になったんですか?」

「そうですね、自他共に認めるお婆ちゃん子です。両親が亡くなった時も祖父母がいたおかげで、思ったより落ち着いていられました。その後すぐに祖母が骨折して、病院併設のグループホームに入ったんですが、そこで祖母の担当になったのが菫さんのお母さんでした。本当に柚木さんにはお世話になりました」

「玲央さんのお婆ちゃんの縁で、あたし今でも高校生やってられるんですね……っていうかちょっと待ってください。なんで今、お爺ちゃんと一緒に住んでないんですか?」


 そこ、すっごい不自然じゃないですか!


「ああ、それですが。先ほども言いましたが、祖父の家には使用人がいまして。僕は何かと『坊ちゃま、坊ちゃま』と甘やかされて育ちました。このままじゃ一人では何もできない人間になってしまうと思いまして、中学に上がる時に両親に『核家族を体験したい』と我儘を。それでここの最上階に住んでいたんです。一昨年まで」

「お父さんとお母さんが亡くなった時、お爺ちゃん、玲央さんに戻って来いって言ったんじゃないですか?」


 玲央さんが当時を思い出したようにフフッと笑った。


「祖父母もそうですが、家政婦さんが大騒ぎで。それを見て、ああ、この家に戻ったら僕は成長できない。独り立ちしなきゃって思ったんですよ。絶対に祖父には頼りたくなかった。理由は違えど、状況は今の菫さんと同じですかね」


 そういう事だったんだ。頼ろうと思えばいつでも頼れるお爺ちゃんがいるのに、この人は頼らないんだ。自分の力だけで生きて行こうとしてるんだ。それをあたしの年齢で決めたんだ。


 あたしが一人感激していたら、いきなり玲央さんが話題を変えた。


「そういえば菫さん、文化委員でしたね?」

「あ、はい。え、なんで知ってるんですか?」

「今日、委員名簿を見たら菫さんの名前があったので」

「玲央さん、3組ですよね」

「いえ、1組です」


 …………?


「え? 理系?」

「はい」


 すました顔で鯖をつついてるけど、さりげなくとんでもないこと言ってない?


「だって、古文得意そうだったし、それに経済とかって文系じゃないんですか?」

「古文も得意ですが、一番得意なのは数学、次が物理ですね」


 そうだった。この人、凛々子の情報では校内一優秀だったんだ。


「じゃあ、あたし3年1組行きますね。うちのクラス、コスプレ写真館やるんです。玲央さんも来てくださいね」

「コスプレですか。やったことはありませんが……楽しそうですね。行きます。ですが学校では手代木と呼んでください」


 やった! 玲央さんが来てくれる。頑張らなきゃ!


「文化委員ならこれから忙しいでしょう。僕のことは気にせず、学校の仕事を優先してください。夕食は少しくらい遅くなっても平気ですから」

「すいません、なるべく早く帰るようにします」


 って言いながらも、頭の中はもう文化祭の事でいっぱいになっていた。

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