第12話 ラ行変格活用
その日は、市役所に行っただけで時間が無くなってしまった。まあ、仕方ない。お役所関係は早い時間に窓口業務が終わってしまう。時間外で七時までやっててくれただけでも感謝だ。
おうちに帰ってご飯食べて、お風呂に入って、ようやく落ち着いたところで玲央さんが思い出したようにお弁当箱を出してきた。
「お弁当、ありがとうございました。美味しかったです」
「良かった。好みじゃなかったらどうしようかって、ちょっと心配してました」
「夕ご飯も、僕の好みでした。実は僕、和食が好きなんです。お婆ちゃん子だったものですから」
そういえば玲央さんのお婆ちゃん愛って凄いもんな。聞いてると、しょっちゅうグループホームに顔を出していたような感じ。うちのお母さんとも面識があったみたい。
「あたし、和食の方が得意なんです。煮物とかほっといても勝手にできちゃいますから。みんなフライパン料理が簡単だって言うけど、鍋の方が放置できるし、その間に宿題とかできちゃって都合がいいんです。うちから使い慣れたキッチンツールを持って来れたから、結構楽でした」
「そうでしたか。それは良かった。では和食がいっぱい作って貰えるんですね」
「はい!」
玲央さんが嬉しそうに眼鏡の奥で目を細めると、あたしまで嬉しくなっちゃう。
「では僕は仕事をしますので、すみませんがコーヒー淹れて貰えますか?」
「はい」
うん、家政婦っぽい。いいぞ、この調子でちゃんと仕事して、勉強もしよう。
なんだか元気が出てきたあたしは、意気揚々とコーヒーを淹れた。
「あの、コーヒーどこに置いたらいいですか?」
「そっちのテーブルの方に」
「はい」
彼はこっちに背中を向けてパソコンの画面に向かってる。デイトレードって言ってたあれかな。まあいいや、あたしはここで勉強しなくちゃ。置いてかれちゃう。
あたしがテーブルで勉強していると、彼がたまにくるりと振り返ってコーヒーを飲む。
なんかいいな。家に人がいるのって。今までなら、家族を持っていても、その家族が家に居なかった。
お父さんは長距離トラックの運転手になってから、その日のうちに帰って来ることは少なかった。グループホームって言っても病院併設だったから、看護師は夜勤もあってお母さんはあまり家にはいなかった。
背中を向けていても、会話が無くても、そこに人が居るっていうだけでなんだかあったかい。
こうして毎日玲央さんの背中を見ながら勉強をするのも悪くないな。
なんて思ってたら、また彼がコーヒーを飲みにこっちを向いて、「あれ?」という顔をした。
「菫さん、古文、苦手なんですか?」
「え、はい、苦手ですけど。なんで?」
「さっきから進んでないようなので」
うー。ぼんやりしてただけなんだけど、まあ、実際苦手だし否定はできない。
「ちょっと見せてください」
「あ……」
取られてしまった。
「品詞ですか。これ、覚えてしまえば簡単ですよ。点数稼ぎに使える問題です」
「え? 品詞が?」
思わず噛みつきそうな勢いで身を乗り出してしまった。だってあたしにとって一番チンプンカンプンなところが『点数稼ぎ』に使えるなんて!
彼は眼鏡のフレームを押し上げると、シャーペンで指しながら話し始めた。
「先ずは付属語で活用するものを助動詞、活用しないものを助詞とします。次に自立語で活用するものを言い切りにしたときに、う段の音で終わるものが動詞、『し』で終わるものが形容詞。『なり』『たり』で終わるものが形容動詞です。活用しない自立語の中で、用言を修飾するものが副詞です」
…………。
「この『蛍の多く飛びちがいたる』の『たる』は、活用するから?」
「……助動詞?」
「そう。『二つ三つなど飛び急ぐさえあわれなり』の『さえ』は、活用しないから?」
「助詞?」
「そうそう、その調子。『言うべきにもあらず』の『言う』は自立語で、う段で終わるから?」
「動詞!」
「いいじゃないですか。その調子です」
え、うそ、古文がわかる!
「では『ほのかにうち光りて行くもをかし』の『をかし』は? 今回はヒント無しです」
「自立語で、う段で終わらないから形容詞?」
「正解。『あわれなり』は?」
「えーと、『なり』で終わるから形容動詞だ!」
「完璧ですね。じゃ、ちょっと難しい奴を。『ようよう白くなりゆく』の『ようよう』は?」
ようよう? やうやうって書いてようようだよね。付属語じゃないか。自立語か。でも活用しないぞ。あ、そうか、用言を修飾するから……。
「副詞! ……です……か?」
あああ、何この竜頭蛇尾な答え方!
恐る恐る玲央さんを見ると、彼はそのポーカーフェイスを崩してニコッと笑った。何ですかそのプリンススマイルは!
「正解です。明日から品詞は九十点は取れますよ」
「きゃー! ありがとうございます! なんか凄いです! 嬉しいー!」
「あー、あの、手……」
はっ! 思わず彼の手を両手でしっかり握ってしまっていた!
「ごっ、ごめんなさい!」
慌てて手を放して、ちょっとドキドキしてる自分に気づく。
そういえば男子の手なんて触ること殆ど無い。殆どじゃない、全然無い。
そりゃそうだよ、彼氏もいた試しないし、兄弟もいない。小学校低学年までは手を繋いだりしたけど。
「いや、別にいいんですけど、コーヒーがこぼれそうだったので」
「あ、そっちですか」
「え? では他に何が?」
「いえっ、何でもないです!」
やだ、意識してるのあたしだけだ。玲央さんはなんとも思わないんだろうか。
「厳密にいえば動詞にはラ行変格活用があって、発現頻度はかなり高いのでこちらも覚えた方がいいでしょう。たったの四つです。あり、おり、はべり、いますがり。これだけで百点取れますね」
「ほんとですか! あり、おり、はべり、いますがり、全然わかんなかった古文が、ちょっとできるような気がしてきました。ありがとうございます!」
「僕で良ければ教えますから、わからないことがあったら遠慮なく聞いてください。一応菫さんより二年ほど勉強してますから」
「家庭教師代、払わなくていいですか?」
「は?」
きょとんとした彼が、一瞬遅れて笑い出した。
「その手がありましたね。でも契約書に『勉強にかかる費用は一切雇い主持ち』と書きましたから、家庭教師代も僕が払わないといけません」
「あっ、そうですね」
思わず笑っちゃった。玲央さん、優しいな。
「やっと笑いましたね」
「え?」
「菫さんの笑顔、四日目にしてやっと見ることができました」
あたし、笑ってなかったの? 四日間も?
「笑顔の方が可愛いですね」
「えっ」
「では、僕は仕事に戻ります」
彼はくるりと背を向けて、それから何も喋らなかった。
あたしはますますドキドキしちゃって、勉強が手につかなくなった。
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