第5話 デイトレード
朝が来た。あたしは知らぬ間にテーブルに突っ伏したまま寝ちゃったみたいで、目が覚めたときには背中に毛布が掛かってた。手代木さんが掛けてくれたんだ。
どんな場所でもどんな状況下でもきっちり眠れてしまう自分の才能に、ほんの少しだけ感謝だ。
手代木さんはといえば……勝手にコーヒー淹れて飲みながら、スマホ片手に難しい顔をしてる。ずっと起きてたんだろうか。
「あの、おはようございます」
「あ、菫さん、寒くなかったですか?」
手代木さん、少し疲れた顔してる。
「すいません、なんか知らないうちに寝ちゃってて。毛布掛けてくれてありがとうございます。あの……手代木さん、寝てないんですか?」
「はい、時間が押してますので」
「ごめんなさい……」
「菫さんが謝ることはありませんよ。僕は自分の仕事をしていたので」
「何やってたんですか?」
「これ。デイトレードです」
スマホの画面をこっちに向けてくれた。何かよくわかんないけど、折れ線グラフみたいなのが見える。
「なんですかそれ」
「短いスパンでの株取引です。FXもやってますが」
聞いてもわかんなかった。でも言葉だけはよく耳にする。株なんて高校生が手を出すようなもんなの?
「あの、すみません。まだ本契約前ですが、朝ご飯作っていただけませんか? どうも頭が回転しなくて」
「あ、はい。好き嫌いありますか?」
「ありません」
あたしの初仕事だ。本契約前だけど、朝ご飯くらい作るのは全然苦にならないし、こんなの仕事でなくてもいくらでも作るよ。
ご飯を作りながらいろんなことを思い出してしまう。お父さんはいつだってあたしの味噌汁が一番おいしいって言ってくれた。お母さんのよりおいしいって。それでお母さんが拗ねたふりをするの。
お豆腐とわかめのお味噌汁。それと、お母さんの大好きなきんぴらごぼう。切り干し大根とひじきの煮物も好きだった。高野豆腐もある。乾物はまだしも、生ものはみんな使っちゃわないといけない。
向こうから手代木さんの声が聞こえてきた。誰かに電話してるみたい。
「そうです。明日の昼くらいでお願いします。容量は二トンくらいでいいと思います。……はい、よろしくお願いします。では、失礼します」
明日の昼、何かあるのかな。また別のところにも電話かけてる。
「あ、おはようございます。手代木です、お世話になります。今お時間よろしいですか? 2号棟104号室なんですが、今月いっぱいになりますのでリフォームの方をお願いしたいんですが」
104号室、この部屋だ。もう後には引けない。絶対に今日中に何とかしなきゃいけないんだ。
「ええ、ではよろしくお願いします。失礼します」
普通に電話してる。仕事の話なのに、大人の人相手に全然引いてない。凄いな、手代木さん。
「あの、ご飯、できましたけど」
「ありがとうございます。いただきます」
一緒にテーブルに向かい合って座ると、両親のことを思い出す。お母さんは夜勤で居なかったりして、お父さんと一緒にご飯食べるんだ。お弁当は自分の分とお父さんの分。お父さんのお弁当は二つ、お昼と夜の分。お母さんはシフトが昼間の日はお弁当持って行く。いつも朝の短い時間にちょこっと喋って、夜も遅く帰ってきた両親と寝る前にちょこっと喋るだけだった。もっとたくさん話しておけばよかった。もっと仕事の話、聞けばよかった。
あ、どうしよう。また涙が出て来ちゃった。ああもう、嫌になっちゃう。
「菫さん?」
「ごめんなさい、なんでもないです」
「美味しいですよ。僕は豆腐とわかめの味噌汁が一番好きなんです。ありがとうございます」
あたしは涙が止まらなくなってしまって、食卓でずっと泣いていた。手代木さんは何も言わずに黙って食べてた。声を掛けずにいてくれるのが嬉しい。
暫くして箸を置く音が聞こえた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。人の作った温かいご飯を食べるのは二年ぶりでした。菫さんも落ち着いたら朝ごはん食べてください。ちゃんと食べないと倒れてしまいます」
「はい」
「じゃ、僕は仕事の続きを」
二年ぶり? どういう意味だろう。お父さんが亡くなってから、お母さんはショックでご飯が作れなくなっちゃったんだろうか。家の中もすっちゃかめっちゃかだったりして。それで家政婦が必要になったとか。
訊く間もなく、彼は時刻を確認するとまたすぐに電話をかけ始めた。
「あの、僕は柚木さんの代理で手代木と申します、お世話になります。担当の柏田さんお願いできますか? ああ、柏田さんですか。はじめまして、手代木と申します。……ええ、その手代木です。ご無沙汰しております。実は柚木さんご夫妻が事故で亡くなられまして、お嬢さんお一人が残されました。保険内容の確認をしたいので至急お会いしたいんですが。証券記号番号申し上げます、メモの準備はよろしいでしょうか」
なんて流暢なんだろう。いくらなんでも慣れ過ぎてる。やっぱりちょっと怖い。
一通り電話が終わると、彼はやや疲れた顔をしながらもあたしに向かってこう言った。
「保険屋さんが十時から来てくれます。十四時には葬儀屋さんが来ることになっています。それと、明日日曜日の昼にリユースの引き取りが来ます。明後日にはもうリフォームが入りますので、今日中に荷物をまとめてください。市役所は明後日の放課後、急いで帰って来ますので一緒に行きましょう。時間外窓口が十九時まで開いている筈ですから。何か質問はありますか?」
そんなに矢継ぎ早に言われても、頭がついて行きません。
「わからないことがあればその都度聞いてくだされば結構ですから」
「はい」
もう、どうやっても後戻りはできないんだ。騙されているとしても、この人に任せてついて行くしかない。
あたしは腹を括った。
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