罠
***
「今週は調子が良かったのね、数日大学を休んでいたようだから、心配したけれど――こんなに沢山」
「ま、まあね」
週末、街の珈琲店で千秋は曖昧に頷いた。
今回待ち合わせ場所を設定したのは、千秋の方だった。彼が唯一なじみのある店で、創作につまるとよく来ていた。
二階にあるテーブル席は、あまり外から事情をうかがうことができない。窓は大きいが、何かを見られたとしてもうまく街の景色に溶け込むだろう。
面識のあるマスターとは、既に話をつけていた。
琴音の前にブレンドコーヒーが、千秋にカプチーノが置かれた後は、緩やかなジャズだけが部屋を支配する。
一度パラパラと全体の量を確かめてから、琴音は最初の一枚に戻ってくる。
初めて千秋の方から誘われたせいか、やや耳が赤い。それでも、探究の方が勝ったのだろう、一ページ目に書かれた未言を見て、表情が変わる。
「
千秋は数秒考えてから、「あ、あるよ」と口にする。
「こっ今回思い出したのが、それだったから、ゆ、
琴音は真剣な顔つきで頷いた。
「実は、いくつかの書物に、「む」の送り仮名を含まないものが出てくるの。それで、学会では名詞化されたものが第一期か第四期以降に存在していたんじゃないかって説が出ているのよ」
動詞の連用形が名詞化するパターンは多く、普通であれば「
しかし、未言屋店主が活動していた時代、一部の体言が動詞化する傾向にあったという。分かりやすいのが「ル」を下接する形式で、「ミスる」(失敗する)等が例として挙げられる。
また、未言自体にも名詞が動詞化するものは多く見られている。安易な推測は危険だった。
「……む、寧ろ、母は、ゆっ
(しまった)と思いながら、千秋はそれでも情報を付け足す。思うところがあるとはいえ、彼女の研究の邪魔をしたくはなかった。
(まさかここで時間を取られるとは思わなかった)
そんなことを思いつつも、何故かほっとしている自分がいることに、彼は気が付いていた。
横に置いたバッグに手をやる。中身が入っていることを確かめてから、少しだけ目を伏せた。
「そろそろ、本格的にお母さまにお会いする必要があるかもしれないわね……」
琴音の人差し指と中指が、指圧するように首元を動く。
指先は、やや震えていた。
千秋は何も返さずに、手を伸ばすと次の一枚をめくった。
「か、影く。鉛筆で、何かを書くことをいっ、言うんだ」
「ああ、見たことがあるわ。……これも未言だったのね。文字だけじゃなくて、絵を描くことも?」
「うん、は、入る」
琴音は
(そうだろうね)と千秋は心の中で呟く。一口飲んだカプチーノは、味がしなかった。
(だって、今回君に見せたものは、第一期のものなんだから)
彼女の表情が、やや曇っていく。
シャワーズランプ。
「ああ、これ、未言だったのね。昨日、貴方が投稿していたでしょう、見かけたわ。『人間は総じて変わりもの』、良かった」
さも偶然千秋の投稿を見たかのように、琴音は言った。やや声が上ずっている。
「カタカナの未言は珍しいのよ。基礎になっているものは和語が多いから。『雨が街灯に照らされてできる空間』……へえ、素敵ね」
「う、うん。か、かっこいい、だろ」
千秋は口端を上げると、次の一枚を彼女に見せた。
――
動物が物陰にいたと思って覗いたのに、もうそこからいなくなって見付からないのを、猫に例えた未言。
琴音は一瞬、黙り込んだ。こくり、と喉が鳴る。
「……知っているわ。第二期……いや、第三期だったかしら」
「だっ、第二期、だよ」
千秋の言葉に、琴音は眼を見開いた。
(僕は『未言字引』について詳しく知らないはず――って、思ってるんだろうな)
千秋は苦笑しながら、「あの、実はさ」と切り出す。
「み、未言を愛していた祖母、が、みっ『未言字引』を持って、いないはずが、なかったんだ――ほら」
トートバッグから取り出したのは、文庫本サイズの冊子数冊。
白い背景に、『未言字引』と銘打ってある。
それを千秋は、テーブルの真ん中に置いた。
「『未言字引』、ぜ、全巻――小川家は、きっ、君に、寄贈する」
条件として、と言葉を継いだ。
「きっ――君が、やりたい、ことを、改めて、お、教えてほしい」
そう言って――千秋は、へらりと笑った。
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