もぎり風


***


 それから、千秋が記したメモを琴音が受け取る、という奇妙な関係が続いた。大体週に二、三個ほどの未言が見つかった。当然何も思い浮かばない日もあって、そういう時は週末頭を掻きながら日付だけが書かれたメモ用紙を見せた。


「いいのよ」

 琴音は凛とした声で、しかし優しげに応えた。


「むしろゆっくり考えてくれた方が私は嬉しい。それだけ深い言葉なのだろうし、ね」



 約束通り、時には週末二人で出かけることもあった。街に出てきて、やたらお洒落なカフェで紅茶を飲んだ。あまり贅沢をしない質である千秋は、そのたびにどきまぎしていた。


「こ、こんな店、僕が来、ていいのかな」


 ワインレッドを基調とした店内の二階席、窓際。アーケード街の一角にあり、外は沢山の人でにぎわっている。

 パスタが美味しいとは風の噂で聞いてはいたが、まさか自分が来ることになろうとは考えてもいなかった。


「何言っているの、学生がお金を落とすことでこの街は回っているのに。今の内に贅沢を覚えなくちゃ損だわ」


 肩に力が入ったまま、何とか零さぬようマカロニグラタンを口に運ぼうとする千秋を笑いながら、琴音は丁寧にカルボナーラをフォークに巻いていく。


 九月の終わり、大学生にとっては夏休み最後の一週間が始まった頃。

今年は暑さもあっけなくこの街を去っていた。千秋はまだ半袖だが、琴音は長袖のワイシャツにベージュのニットベストを着ている。


「と、とりあえず、……こ、んしゅうの分。」

 左ポケットからメモ帳を取り出し、上の数枚をぴりっと破る。琴音が受け取ったのを確認してから、千秋はもう一口スプーンを運んだ。


 パラパラとメモ用紙をめくった後、琴音は「うん、確かに」と頷いた。「一度コピーを取ってから返却するわ」と説明を加える。


「枯れ老ゆ……月摘まむ……そう、もう秋だものね。第二期の未言だったかしら」

 千秋は曖昧に頷く。


 『未言字引』は第一期、第二期、第三期……という風に、未言屋店主が未言を発見した時期を区切りにして巻が構成されている。


 文学会内で共有されている『字引』は現在、第二期と第三期、そして第八期に限られている。第一期も、どこかには存在するらしいが、個人所有のものが多く、閲覧を拒否されたり、そもそも見つかっていなかったりするのだ。


 しかし、未言の知識を母親から譲り受けた千秋が、その区切りまで覚えているはずがなかった。


 彼の反応に苦笑した琴音は、「えっと」と仕切り直す。


「細書く、雨尋ぬ……『もぎり風』も確か、第二期の未言ね。えっと」

「手、に持ったもの、たっ例えば手紙だとか、傘だとか、そう――そういったものを、さ、攫っていってしまうくらいの、強風のことだね」


「なるほど。やはり秋の未言なのかしら」


 『字引』には一部、季語であることを匂わせる説明が載っている。そうでなくても、未言屋店主が季節を意識して未言を練っていたらしいという推測は、既に論文で発表されていた。


 フォークを一旦置いた琴音は、人差し指と中指を首筋にあてた。真剣に思考する際の、彼女の癖だ。

 まるで脈拍をとるような仕草。


 袖から覗く手首は折れそうなほど細いが、指は案外しっかりしている。

 論文や資料作成のために、普段からパソコンのキーを叩いているのだろう、と千秋はぼんやり考える。中指の第一関節にペンだこがあることを鑑みるに、あまり道具を気にするタイプではないらしい。


(この間、「どこにメモをしたか忘れてしまった」とか言ってたな……文字にできれば良いって感じか)


 女子らしく爪には淡い桃色のマニキュアが塗られていた。その鋭い眼光と性格のせいで一歩距離を置く男子も多いが、何度か近くで話してみれば、彼女がかなり見目に気を使っていることが分かる。


「強風――春一番はこの部類に入るのかしら? あれもまた、ものを攫っていくことが多いけれど。帽子のイメージが強いわね……貴方、聞いている?」


 怪訝そうな琴音に、千秋は現実へ引き戻された。「ご、ごめん」と頭を下げる。視線から逃れるべく口に突っ込んだグラタンは、とっくに冷えていた。


「……………」

 無言が千秋にぐさぐさ刺さる。


 慌てて意識を未言へと向けた。口を開く。

「ん……。どう、だろう、僕は、は、入る気がする。元は動詞『もぎる』、に『風』を、た、足したものだろう。ねじり取る、ち、千切り取る。あ、ある程度の、暴力性、みたいなものがある、あるのかな」


 彼の言葉に、琴音は「ふうむ」と唸った。どうやら及第点を得たらしい。


「暴力性、か。秋風と春風ではまた『もぎり風』の意味が違ってきそうね。考察の余地がある」

「そ、そうだね」


 眼鏡の奥で瞳の光を増していく彼女を見ながら、千秋は自分の頬が緩んでいることに気が付いた。


 ある程度友人知人はいたものの、今までずっと言葉と向き合ってきたせいで、深い付き合いをしたことはなかった。


 千秋はそれを不幸だとは思っていない。

 寧ろ、自身の性分に合っていると感じていた。

 今までも、またこれからも、そうして生きていくものだと思っていた。


 でも、今は違う。言葉、というもの、あるいはその可能性について、心ゆくまで語り合える仲間がいる。「未言」というものについて、深く考えるきっかけまでくれた。琴音はいわば恩人だ。


「もぐ……もぎる……風……うふふ……」


 怪しく呟く彼女を見ながら、千秋はグラタンの最後の一口をすくった。


 くくっ、と思わず笑ってしまう。

 一瞬浮かんだ考えは、それはもう馬鹿げたものだった。


(――まるでデートみたいだ、なんて言ったら、怒られそうだ)

 

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