風虫


***


 「頼みを聞いてくれるお礼に」と言って、琴音は千秋をそのまま大学近くのファミレスに連れて行った。


「ドリンクバーの梅昆布茶が美味しいのよ」


 そんなことを言いながらハンバーグを口に運ぶ彼女。面倒くさいのかナイフとフォークではなく、箸で直接切り裂いていく。


 ハンバーグの隣にはポテト、軟骨唐揚げ、チーズケーキ、パフェといった料理が並んでいる。彼女曰く、「沢山ものが並んでいると幸せな気分になることができると思う」。


 見事な食べっぷりに、千秋は今更ながら目の前の女性もまた自身と同じ日文へんじんであることを思い出した。


「それで、小川君はどうして未言みことを知っているのかしら」

 ずれ落ちた眼鏡の位置を中指で調整しながら、琴音は尋ねる。


「あ、ああ、そう、えっと、そもそも、み、未言みことを知っていたのは祖母で――」


 千秋が時折つっかえながら話す経緯を、彼女はいつの間にか取り出していたメモに書きとっていく。


(要領のいい人だ)


 どちらかと言えばいつも後手に回ってしまう千秋からすれば、羨ましい限りだ。

 それだけ琴音が未言に力を入れている、ということでもあるのだろうが、彼女の持つ人を惹きつける力の強さを、千秋は感じ取っていた。


「ふうん、ありがとう。ちなみに、その御祖母様は」

「ああ、ぼ、僕が中学生の頃に亡くなったよ。……母、になら話を聞けるかも」


 困ったように笑う彼に、琴音は特に気にする様子もなく「そう、いつかお願いするかも」と言った。


「そ……そ、それで、僕は具体的に何をすればいい? ちょ、ちょっと今すぐに知ってる未言を書きだせ、は難し、いんだけど」

「うん、それはそうだと思う。だから、思い出したときにメモを取っておいてくれるとありがたいかな。言葉と、出来ればアクセント。それから意味と、特にどんな時に使うか。例文があると尚嬉しい」


 これを使って、と差し出された小さなメモ帳を千秋は受け取った。

 真っ黒な表紙には白抜きにされた猫が浮かんでいる。女子大学生が持つにしてはシンプル過ぎるが、琴音にはぴったりと合っていた。


「ずっ…随分準備が良いんだね」

「メモ帳は常にいくつも持っているの。貴方こそ、文芸部なら持っているのでしょう?」

「ぼっ、ぼ、僕の場合は、スマート、フォンにメモしちゃうからなあ」


 他愛のない話をしながら、千秋は(おかしなことになったものだ)なんて考えていた。


(未言……未言かあ、母さんにでも聞いてみるかなあ)


「それでさ、出来れば、で良いのだけれども、なるべく『未言字引』や人に聞くのではなく、自分の言葉で書いてほしいの」


 千秋の思考を読み取ったかのような発言に、彼は思わず「へっ」と声を上げた。


「ほら、時代ごとに未言のモーラや使い方、意味合いも若干変わってくる可能性があるでしょう? 勿論発生当時の使用例も調べるつもりよ。ただ、そこで時代がごちゃごちゃになるのは避けたいのよね」


 言語学においては、その意味やどういった場面で使うかはもちろん、モーラ(音の高低)等、どのように発音するかも重要になってくる。


 曰く、琴音は大学院まで進み、各未言の変遷まで追いたいらしい。そのため、千秋には現代における未言の使用例を担当してもらいたい、とのことだった。


「な、なるほど、それならりょ、了解した。……と、とはいえ僕の知っている、みっ、未言って母譲り、のものだけれど、そ、それはいいの?」


 千秋の純粋な疑問に、琴音は「あー、それね」と頬を掻く。痛いところを突かれた、と言った面持ちだ。


「そこは仕方のないところではあるのよね。ほら、未言って『未言字引』やその他作品群が残っているのは良いものの、口承の線もかなり強いのよ。貴方みたいにね。だから、そこは妥協点かなと」


 他にも地域差(いわゆる方言)等の問題もあるが、そこには目を瞑る、とのことだった。


 なるほど、と千秋はもう一度頷いた。

 言葉は変遷するものだ。一年の最初の授業が「文学」とは何か、「言語」とは何か、というところから始まったのを彼は思い出す。


 千秋の専門は近現代文学であるため、言語学はそこまで詳しくない。しかし、同じ言葉を研究する者同士、どこまで追求しどこから妥協するかを考える難しさは知っている。


「りょ、了解した。ぼ……僕は僕の脳内をここに書きだせば言いわけだね?」


 彼の言葉に、琴音はゆっくりと頷いた。それから、ほんの少しだけ躊躇するそぶりを見せた。しかしそれは千秋が気に掛ける前に、言葉として現れる。


「……それから時々、こうして会って欲しい。発音を確認したい」


 何故か目をそらしながら言う彼女に気が付くことなく、千秋はあっさりと「あ、ああ、それは勿論」と肯定した。


「そう……ありがとう」

 琴音は緩やかに笑った。

 今日一番の、優しい笑顔だった。



***



(……そう言えば、暫く触っていなかったな)


 夜、千秋は自宅の壁の隅に置かれたそれに目をやった。


 さっきまで祖母の話を彼女にしていたからかもしれない。思考を重ねながらケースの蓋を開ける。


 出てきたのは、一本のアコースティックギターだ。


 元々祖母が使っていたものらしく、かなり本体は古びている。母曰く「上手いって程でもなかった」ようで、いくつも小さな傷がついていた。


 祖母が亡くなった後放置されていたギターを修理に出し、弦を張り替えたのは千秋自身だ。大学生になってからも時折思い出したようにこうしてケースから取り出し、音を出している。


(高校生の頃はSNSの配信機能使ってミニライブ! とかやってたっけ。……今となっては黒歴史にもほどがあるが)


 くっくっ、と一人暮らしの狭い部屋の中に、笑い声が響く。彼自身、そこまでギターを上手く弾けるとは思っていない。ただ、歌っている間はどもることがほとんどなく、安心するのだ。


 ベッドの柱に背を預け、やや弦を絞る。


(文字や歌にすれば、僕の言葉はきちんと届く)

 軽く弦を鳴らす。隣人は今日夜勤らしく、優しい音だけが千秋の鼓膜を揺らした。


「……『僕の願いがひとつだけかなうなら――』」


 ふいに口をついて出るのは、他愛ない言葉たちだ。


 自分は何でできているかだとか、世界とは何なのかだとか、そういう、痛々しくて輝いていた時代に作った曲。しかしいつも曲と呼ぶには短すぎて、成人してからほとんど歌ったことはなかった。


(大人になってくすんだ、なんてことはまだ言いたくないけど、な)

 それでもきっと、当時の言葉はあの時の自分にしか出せないものだろう。そんなことを考えながら、弦をつま弾く。


 歌詞自体は酷く平凡で、青春だの恋だの甘酸っぱいだの、そういう言葉が拙いギターの音と共に紡がれていく。半ば苦笑しながら、千秋は一曲を歌い終えた。


 観客はベランダから仄かに聞こえてくる風虫と月だけだった。


「あっああ……か、風虫かざむし、か」


 風に揺れた葉同士がこすれて鳴るのを、虫の鳴き声に例えた未言だ。


 台詞として出た言葉はいくらか飛び跳ねた後に不時着した。それでも、不思議と不快にはならなかった。どうにか捕まえた言葉をそっと手繰り寄せる。


 千秋はリュックサックから筆箱とメモ帳を取り出し、暫くの間目を閉じていた。



 良い詩が、書けそうだった。


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