モンターグ


***


 未言みこと、というものがある。


 否、使用者がほとんどいない今、存在していた、と言った方が正しいかもしれない。


 未言みこと

 いまことにあらざるなり。

 

 当時の現代日本語において、あるいは現在においても名を持たないものたちに、未言屋店主を名乗る者が与えていった言葉。


 千秋は詩集のタイトルも含めて、ほとんどの詩にその未言みことを使用している。


 一般的に世間からは彼自身の手による造語だと思われている。最近はSNSのリプライに時々〈それって未言みことですよね!〉といった指摘が来るようにはなったが、まだまだ認知度は低い。


 千秋に未言の存在を教えたのは彼の母だった。母親も彼女の母親、要は千秋の祖母から聞いたらしいが、よくは知らない。


未言みことはねえ、いつの間にか傍にいるものよ。普段は身近過ぎて、むしろ気が付かない。ふと振り返った時に足元でにっこり笑っているんだって』


 母のそんな言葉を思い出しながら、千秋は目の前の女性と対峙する。


「私もまさか学内に、それも同学年に秋山千秋がいるとは思っていなかったわ。ただ、やたらこちら――というか、この詩集に視線がくるなあとは思っていた」


 「い」を抜かすことなく、きっちりとした話し方をする琴音。音無風おとなしかぜが彼女の前髪をわずかに揺らした。


「そうしたら貴方、『火食ほばむ』とか言うじゃない。次の言葉が思わず出てこなかったわよ」

「あ、あっあの無言は、そういうことだったのか」


 千秋の言葉に、琴音は「まさかほんとに気が付いていないとはね」と肩をすくめる。


「日常的に未言を使う奴なんて、なかなか聞かないわよ。まあただの偶然かもしれないし、念のため鎌をかけてみたらホームラン……ってとこ」


 証明終了。


 彼女の言葉に、千秋は深々と溜息をついた。世間的には珍しくとも、彼にとって未言は「特別な言葉」くらいの、日常に染みついたものだ。


(気を付けようとは思っていたけれど、思った以上にぼろぼろ出てたんだな……)

 頭を軽く左右に振ってから、千秋は口を開く。


「……え、ええっと、それで、こうして僕を暴いて、き、君の要求は何? まさか、こ……好奇心だけで近づいてきたって、わ、わけでもないだろうし」


 流石にお互い成人済みであるし、個人情報云々の話にはならないだろうとは思いつつも、その手は若干震えている。


(ここで詩の論評とか始められても困る……)

 背中に汗をかく千秋に気が付かないのか、琴音はあっさりと「ああ、それね」と言った。


「私さ、『未言』及びそれを使用した作品を研究しているの。――協力、してくれるよね?」



***


 

 聞けば、琴音のいるゼミでは既に卒論の話が出ているらしい。後期の演習授業から少しずつ成果を発表しなければならない、とのことだった。


「高校生の時、SNSに『羽成はなす』を使った短文が流れてきてね。詳細は覚えていないのだけれども、そこから少しずつ未言を調べていったの」


 背筋をきちんと伸ばした状態で、琴音ははきはきと話した。語ることが楽しくてたまらない、とでもいいたげな、満面の笑みだった。


 文献によれば、少なくとも三千語以上は存在していたらしいこと。


 現在『未言字引みことじびき』が数巻残存しているが、全てを網羅できているわけではないこと。


 そもそも先行研究が少なく、その他未言使用作品を発見、及び参照する必要があるということ。


 琴音の研究内容は残存する『未言字引』に載っていない、かつて存在していたはずの未言をその作品群や証言により発掘することだった。


「その上で、貴方の脳を借りたい。小川君がどうして未言を知っているのかから知りたいわね。――多分、貴方はモンターグなのよ。貴方の脳には、私の知らない未言が詰まっている」


 ブラッドベリくらいは知っているわよね?

 琴音はそう言って、にっこりと笑った。


(ごめん、海外文学知らない……)

 千秋はそう思ったが、何も言わずに頷いた。


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