羽成す街の中で

桜枝 巧

邂逅

 びくり、と千秋は肩を震わせた。


 慌てて「それ」から視線をそらしたものの、一度見てしまったものを意識から外すのは難しい。ちらちらとそちらの方に目が寄っていく。


 A大学二限目の試験後、昼休み。

 多くの学生が学食に向かう中、千秋とその友人は文芸部室に向かっていた。


「……どうした小川? 名前でも書き忘れたか?」


 首を傾げる友人に、小川、と呼ばれた彼は慌てて「な、何でもない」と答えた。

 そのまま、九月の夏重なつかさむ日照りの中を掻き分け歩いていこうとする。友人はさらに眉を顰めた。とても何でもなさそうには見えなかった。


 きょろきょろと辺りを見回した友人は、「あ」と小さく呟く。

 徐々ににんまりとした笑いに変わるのを見て、千秋は思わず立ち止まった。

 いつでも逃げられるようリュックサックを背負いなおした瞬間、友人にがっしり肩を掴まれる。


「はあん、お前も目が高いですねえ」

 目を細める友人に、千秋は少しどもった。

「い、いや、あの、たっ多分お前が考えているような、こっ、ことじゃなくてだな」

「そうじゃなかったら寧ろ何なんだよ」


 二人の視線の先にあるのは、木陰のベンチで昼食をとる女子大生二人組。元々日本文学科自体の規模が小さいこともあり、顔はよく知っている。同じ学年だ。

 日に当たっていないとは言えやはり熱いのだろう、彼女たちの頬には軽く汗が浮かんでいる。しかしそれを気にすることもなく、二人はきらきらおしゃべりに興じていた。


 ショートヘアの女性の方が何か本を持ち、めくっている。どうやらそれについて意見を交わしているようだった。


「安藤雪奈サンと山崎琴音サンかあ……まて、どちらがお前のタイプか当てて見せる」

「だ、だっだから、そういう問題じゃあ」

「ずばり! 山崎サンだろ!」


 発せられた言葉に、千秋は思わず口をつぐむ。確かにゆるふわ系の安藤よりはしっかりしていそうな山崎の方が好みだ――が、そうじゃない。


 千秋が反応したのは、その手に握られている本だ。

 若干距離こそあれど、彼はそのタイトルを知っている。


 秋山千秋『添音そほと』。

 要するに――彼が書いた詩集だった。


 「ちょ、ちょっと雪奈? 大丈夫なのアンタ、えらくフラフラしてるけど、ちょっと、雪奈!」


 千秋の戸惑いをよそに、目の前でひとり、女子が椅子から崩れ落ちる。



***



 軽い熱中症で倒れた安藤雪奈を構内の保健センターまで運んだのは、友人の方だった。


 木陰とはいえ体温以上はあるだろう暑さの中に居たのだ、倒れて当然である。

 幸いすぐに処置が施され、彼女はすぐに目を覚ました。

 好みのゆるふわ系女子にお礼を言われ表情を崩す友人を横目に、千秋はひとつ、溜息をつく。「まあ、ぶ、無事でよかったよ」と軽い感想を口にした。


「二人は次も試験?」

 よく通る、少し低めの声で琴音が尋ねた。


 手にまだ彼の詩集が握られているのを見つつ、千秋は「う、うん、文芸学概論」と答える。彼女たちは取っていない講義のはずだった。


「そう」

 琴音がちらり、と千秋の方を見る。

 視線が合う。

 いたたまれなくなって、「も、もう火食ほばむき、季節なんだから、あんまり外に、でっ……出るのはよしなよ」と頬を掻いた。


「…………」

「…………」


 会話が続かない。


「……また、後でお礼を言うわ。試験頑張って」

 淡白に答えた琴音の言葉を最後に、男子二人は保健センターから追い出された。



 小川千秋は詩人だ。


 ペンネームは「秋山千秋」、今月初めて自身の詩集を窓鷹書房から出版した。

 サイトやSNSを使って作品を投稿していたところ、一体何の偶然か編集者の目に留まったらしい。一応それなりの知名度はあったが、電話が掛かってきた際は詐欺か何かかと千秋は疑った。


 結局投稿サイトから特に人気だったものを数本、後は新しく書きあげて詩集は出版された。考えていた以上に売り上げは好調だという。


(しかし、こんなに近くで自分の詩集を目撃するとは思わなかった……)


 試験中、明治時代における「文学」という語の変遷について言葉を連ねながら、千秋は考える。


 山崎琴音。明るめのショートに眼鏡。

 学力的な問題なのか、それとも何か他に理由があるのかは分からないが、東京からわざわざ九州まで引っ越してきたらしい。


 専門は語学。

 言葉というものをとことん突き詰めてみたいのだ、とどこかで話していた。


(……もし詩集の作者が僕だと知ったら、ここの言葉がどうだとか直接言われそうだなあ……そうでなくても安藤さんと何か話していたみたいだし)


 眼鏡の縁に指をかけながら語りまくる彼女の姿を想像して、千秋はうげえ、と小さく舌を出した。


(なるべく黙っとこ……)

 そんなことを思いながら、彼は最後の問題にとりかかる。



***



「小川君、ちょっといいかしら」


 黙れなかった。

 

 四限目、本日最後の試験が終わったところで、千秋は琴音に呼び止められた。


「えっあっ……ぼ、僕ですか」

「小川って苗字の人、君以外に居ないと思うんだけど」


 思わず背負ったリュックサックを強く握りしめた千秋に、琴音は呆れた顔で返す。


 同じ学科とはいえ、今まで一年次の共通講義のグループワーク程度でしか関わってこなかったのだ。専攻が決まって以降は今日の昼のようにすれ違うくらいで、ほとんどそこに会話はなかった。


「そ……そうだよな、うん、ぼ、僕が小川、君だ」

「変なの。まあ、日文なら変人も当たり前か」


 日本文学科の略称を呟きながら、琴音は頬を掻いた。「行こっか」の一言を添えて歩き出す彼女に、千秋は慌てて後に続く。


 後ろを振り返ったが、彼の友人の姿は既になかった。変な気を使ったらしい。


「へっ変人って……あ、たたっ、多分気が付いていると思うけど、俺吃音持ちなんです、き、聞きづらかったら、申し訳ない」

「別にそれは良いよ。わざわざ言うなんて、やっぱり変な人ね、というか敬語とタメ語がごっちゃになっているから、むしろそっちの方が気になるわ」

「……あっそうですか」


 完全に彼女のペースに飲まれつつある千秋は琴音について行くしかない。階段を降り、学生用ロビーを過ぎ、あっという間に外に出てしまう。


「中庭でもいいよね? この季節、人が居なくていいのよ、あそこ」

 まあ暑いからなんだけどね、まさか雪奈が熱中症になるとは思ってなかったわ、と琴音は付け加える。


(妙なところで抜けている人だ)

 千秋は苦笑しながら「い、良いよ、もう涼しくなってる、頃だろうし」と言う。

 実際、夕暮れ近づく学内は昼よりもずっと過ごしやすくなっていた。

 

 若干赤く染まり始めた空を見上げながら、琴音は気持ちよさそうに背を伸ばす。

「うん、そろそろ唐夏も本番だしね。『唐夏からなつがぼくを許してくれる』だっけ?」

「そっそうだね……って、あ」


 頷きかけて、千秋は分かりやすい声を出した。すぐさま表情を取り繕うとするが、遅い。


 『唐夏がぼくを許してくれる』――秋山千秋が発表した詩の、一節だ。


 琴音がにんまりと、こちらも非常に分かりやすい、してやった、とでも言いたげな笑みを浮かべる。


「さて、何か御釈明はありますでしょうか、秋山千秋先生?」

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