旅籠雉子屋

 西に傾いた夕陽が山脈の頂きにその身を隠し始めた申の刻。更紗は花束を膝に抱いて町駕籠に揺られながら、外の景色をぼんやりと眺めていた。


 周囲の建物とは比べ物にならないほどの圧倒的な存在感を放つのは二条城だ。天守台の上にそびえる火の見櫓は高かった。京の町を全て見下ろせるのだろう。


 城下町の雰囲気はやはり雑多なものだ。茣蓙ござの上に骨董品や浮世絵を並べて売る者、それを喜んで買う者、冷やかす者もいれば、移動式の木製屋台に群がり、蕎麦やおでんらしき温かい食べ物にありつく人々の嬉々たる様子が見受けられる。


 白昼夢だった。そんな活気ある世界は自分とは隔たりのある遠いものに思える。更紗は一人取り残されたような、不可思議な寂しさを胸に感じていた。



「……いいなぁ。私もあったかいもの食べたい」


「見合いの場で食べればいいだろう」



 声のした方へとチラリと視線を上げれば、斎藤の姿が目に映る。駕籠のすぐ真横を歩んだまま、毅然とした態度で前を見据えていた。



「何かすみません。こんなことで付いてきて貰っちゃって…」


「気乗りしないのか」


「……そんなこともないですけど」


「やはり副長への当て付けか」


「……違います。何のために当て付けるんですか。意味分かんない」


「お前は副長に惚れているのだと俺は認識しているが」


「……惚れてませんよ」



 更紗は気まずそうに斎藤から視線を逸らす。男の長い前髪の隙間から覗く見透かしたような目つきが、過去の残像を容赦なく蘇らせる。



 嫉妬からくる哀しみを隠しきれず斎藤に泣きついたあの雨の夜は、確かにこの胸の内に秘めたる想いを抱えていた。


 ただし、それは自分にとって既に過去の出来事だ。交差してしまった相手に未練はない。振り返ることなく前を向いて歩き出せているのだが。



「違うの……もう終わったんです。全部終わったの」


 情けないかな、手を伸ばしても届かない不毛な恋愛に身を投じるほどの強い精神力は持ち合わせてはいない。



 籠の中にいる鳥が未だ触れぬ大空へ想いを馳せるようなもの。いくら羽根を広げて羽ばたいたところで、その傍に寄ることすら叶わないのだ。


 たった一度、羽を伸ばして偶然掴んだ雲の欠片を空の一部だと大切に抱いたのも束の間、それは夢幻の時のように気づけば跡形もなく手の内から消えていた。




「……ここじゃあ。着いたやき」


 無意識に巡らせていた思考を引き戻すかのように視界がぐらりと揺れる。独特の浮遊感を持たせたまま地面へとゆっくり降ろされた。


 駕籠舁かごかきと呼ばれる担ぎ手が赤い鼻緒の下駄を土道へ置いてくれる。



「さぁ、お更。新しい戸を開くぜよ」


 沈みゆく赤熟した太陽を背に龍馬は挑発的に微笑んでいた。無骨で頼もしい大きな手を駕籠の中に向けて差し出してくれる。


「……ありがとうございます」


 更紗は小さくお辞儀をした。冷えた足を下駄へ静かに通していき、目の前にある逞しい手に自分の右手をそっと重ねる。



「……ここって上七軒の近くですよね?」


「そうじゃ。よお知っちゅうな」


「時々、上七軒に行くためにこの道を通るんですよ」


「ほう、何しに行くんなが?」


「今、上七軒の置屋で芸事の手習いを受けてるんです」



 更紗はグイッと引っ張る男の腕力に身を任せた。駕籠の中から解き放たれるように、ゆっくりとその場で立ち上がる。



「そりゃあしょうえいのう。 何ちゅう置屋かよ?」


「喜み乃屋さんにお世話になってます。でも、座敷には出てなくて。ただ、習ってるだけです」



 龍馬は周囲を隈なく見回し、歩いていく。何か気になることでもあるのだろうか。更紗は鮮やかな千日紅を胸に抱くように引き寄せ、その背を追いかける。



「ほう、お更は芸事も出来るやか」


「人前で披露はしないですよ?」


「ほうほう、そりゃあ楽しみじゃ」


「……才谷さん? 話、聞いてますか?」


「聞いちょる、聞いちょる。よお聞いちょるぜよ」



 カラカラと笑う龍馬はこちらの返答に合わせて適当に相槌を打つだけ。話は噛み合っていなかった。更紗は思わず眉を寄せるも、目に映る彼の姿に自然と頬が緩んでいく。


(……絶対聞いてないし。龍馬さんらしいって言ったららしいけど)



 丁髷が曲がっているところからも分かるように、坂本龍馬の性格に繊細さは持ち合わせていないようだ。よく言えば、天真爛漫で度量が大きいのだろう。


 この類の人間に話を聞かせようと注意を促しても手ごたえはない。のらりくらりと交わされて悶々とするのが筋だ。言うだけ無駄なのである。


 ふんふんと鼻歌混じりに進む龍馬に導かれるままに、更紗はある町屋の前で歩みを止めた。『旅籠雉子屋』と書かれた大きな提灯が一つ吊り下がっている。暖簾を潜ると、式台に座っていた番頭がゆるりと頭を垂れた。



「ようこそ御出でやす。今宵はお泊まりどすか?」


「いんや、飯じゃ。先に待ち人が来ちゅう筈なんやか」


「へぇ、本日は有り難い事にようさん居られまして……お待ち頂いてはるお客はんの御名前は何と申しますのやろか?」


「うーん、ほうじゃな……中根でおらんか?」


「……あいにく、中根様は居はらへんどすなぁ」



 龍馬の問いに答えたのは端の帳場で冊子をめくっていた女であった。堂々たる佇まいから見て彼女がこの旅籠の女将なのだろう。こちらの様子を伺うように龍馬と更紗を交互に見つめていた。



「ほうかぇ……あん男の事やき……じゃあ、二ツ橋や江戸橋なんど……橋のつく客はおらんか?」


「……橋のつくお客はんやったら……居はりますけど…」


「そうじゃ! 申ノ橋じゃ。申ノ橋のおる部屋に通せ」


「へぇ……ほんなら、お二階へどうぞ」



 どこか訝しそうな顔を浮かべる女将の後ろを龍馬が素知らぬふりで付いていく。更紗も慌てて後に続くが、一抹の不安ともいえる妙な違和感を覚え、背後を振り返る。


 頼みの斎藤はこちらへ来れないようだ。式台に上がった土井と斎藤は番頭に行く手を阻まれ、突如現れた侍と会話をしていた。



「なんちゃあない。あの二人にゃ別の部屋を用意させる手筈になっちゅう」


「……別の部屋ですか?」


「流石に護衛を立ち入らせる訳にゃいかんぜよ」



 一体、部屋には誰が待っているというのか。更紗は色濃くなる不安を前に言葉を返せなかった。無論、そんな気持ちの変化に龍馬が気づいてくれる訳がない。


 確かに才谷梅太郎の正体がバレてはマズイとたった一人で見合いに参加するつもりではあったけれども。発起人の龍馬でさえ名前をはっきり言えぬ相手となれば、話は別である。


(正体不明の男とか……何か、怖くなってきた…)



 予想外の困惑だった。けれど、もう引き返せない。不穏な胸騒ぎを感じながらも勾配の急な細い階段を上っていく。


 上りきった先は板廊下が続いていた。暗がりの中、恐る恐る歩みを進めると、一番奥の部屋の前で年老いた侍が正座をし、鋭い眼光でこちらを見据えていた。



「……坂本殿、遅いではないか」


「……おお、これは中根殿。やはりおんしは来ておったか」


「何を悠長な事を……申の刻はとうに過ぎておるぞ」


「あれ? そうかえ? わしは未だ申の刻じゃと思うたですがや」



 龍馬は小首を傾げながら懐手をする。どうやら知り合いらしい。更紗は二人の温度感の違いを息を潜めて見つめていた。軽快な足取りの龍馬は呆れ顔を浮かべる老いた侍の元へと近づいていく。



「……坂本殿、刀はどうされたのか?」


「今日のわしは仲立ち人を務めるしがない商人、才谷梅太郎じゃ。そげな物騒なもんは持っていやぁせん」


「……全く、如何なる時でも用心なされよ」


「さっき旅籠屋の周りを見ちょったが怪しい奴はおらんかったき。下に護衛が二人おるやか別室で待機させて貰うてもええですか」


「……護衛にこの事は?」


「なんも喋っちゃあおらんです。安心しとおせ」



 その侍は恐ろしく真剣な表情を浮かべていた。対して龍馬はちょんと口を尖らせ澄ました顔つきである。ひらりとその横に腰を下ろした龍馬は、僅かに透けた障子へと指を掛けた。



「坂本龍馬でございます。只今、馳せ参じちゅう」


「──入れ」



 龍馬の態度が珍しく丁寧であることに更紗は面食らった。この坂本龍馬ですら、気を使う相手がこの奥にいるのだ。障子越しに聞こえた声は一言であったが品があったように思う。


 スッと開けられた障子の先に人の気配を感じた更紗は慌ててその場にひれ伏す。意に反して瞬時に鼓動が跳ね、心と身体がぎこちなく強張っていた。


「……女、断じて失礼のないように。身をわきまえよ」



 老いた侍から向けられた眼差しは品定めするような不躾なものだった。更紗は本能的に不快な気分に苛まれるが、グッと堪えて無言で立ち上がる。


 龍馬に続いて部屋の敷居をまたぐ。妙な緊張感から視界の端に映り込む男を直視することができない。更紗は視線を伏せたまま、龍馬の背後で石のように固まっていた。



「俺を堂々と待たせるのは勝とお前くらいだよ、龍馬」


 洗練された低い声が室内に響く。目の前にいた龍馬が声の主の元へと歩いていく。



「待たせるなんて人聞きの悪い。ケイキ殿がまた分からん名字にするき手間取ってしまっちゅう」


「……ん、申ノ橋か? それは先般、お前が逢瀬の刻を名に使おうと言ったからではないか。何、もう忘れたか」



 膳の前で胡座を掻く男は丁髷を結わえる侍であった。こちらを見据え、クツリと笑みを零す。龍馬も釣られるように笑い、向かい側にストンと座り込んだ。


「まぁ、今宵はまっこと面白きしょうえい女を連れてきたやか、大目に見てつかぁさい。お更、こっちに来るぜよ」



 更紗は龍馬の呼びかけに肩をビクつかせた。胸がどきどき張り詰めるのを感じながら、声のするほうへ目線を合わせていく。


 眉目秀麗という言葉がぴたりと当てはまるような男がこちらを向く。位が高そうに見えるのは、月代を広くとっているからなのか。新選組の男たちとも違うが、町で見かける男たちとも雰囲気が違った。


「……合いの子であるのは理解したが……花を抱えたざんばら髪の女とは聞いてないぞ」



 確かに聞こえた男の声色は、戸惑いを隠せていなかった。期待していた見合い相手がこんな姿であることに同情を禁じ得ない。更紗は今すぐにでも謝って、屯所へ逃げ帰りたい衝動に駆られた。



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