千日紅
すっかり日が陰ってしまった板廊下は行灯を灯したくなるほどに薄暗く、足裏へひやりとした冷たい感触を与えてくれる。
現代で言えば、紅葉美しい十一月下旬に相当する時期だ。素足での外出は、少なくとも冷え性の足にはかなりつらい。
(……足袋履けばよかった。今から戻るのもなぁ…)
部屋に帰れば、またあの男たちと顔を合わせることになる。振り切った手前、それは避けたかった。その上、実は堂々と足袋を履きづらい理由もある。
武士階級であれども冬以外は基本裸足で生活するのが常。どうやら江戸では、男女共に素足で過ごすのが粋で、足袋を履くのは野暮者のすることだと考えるらしい。
上洛するまで江戸界隈で暮らしてきた幹部にもその意識は根づいていた。寒さに負けて足袋を履くのは腹が決まっていない証拠。すれ違う平隊士たちは皆一様に裸足だ。
「………もういいや、諦めよう」
心が落ち着かないままに見上げた虫籠窓から淡い夕陽が射し込んでいた。太陽の光にはもう冷える足下を照らす力はないようだ。
そんな闇の潜む暗がりを抜けた先に見えるのは、もう一人の新選組副長だ。かろうじてできていた陽だまりの玄関で、ずっと会いたかった人物と談笑している。
更紗は胸の高鳴りを抑えきれず、足早に近づいていく。明るい玄関口に佇んでいたワイルドな風貌の伊達男と目が合う。白い歯をニッと見せ無邪気に微笑んでくれた。
「お更、ハロォじゃき。逢いたかったぜよ」
少ししゃがれた声で快活に話す龍馬を捉えた更紗は、心が紫陽花色の夕空へ引き上げられたかのような興奮に満たされていく。
「才谷さん……!!」
相変わらず肌は日に焼け浅黒く、癖のある黒髪を後ろに束ねていた。着古した羽織袴を纏ってお世辞にも綺麗とは言えない身なりであるが、その姿こそ正しく坂本龍馬の真骨頂だ。
(……本当に龍馬さんが迎えに来てくれた……ハローって言ってくれた)
憧れの人物が目の前にいる。夢か現か分からないこの浮かれた状況への喜びを更紗は隠すことができなかった。先程までの複雑な感情は薄れ、満面の笑みで龍馬の近くに駆け寄っていた。
「才谷さん、ご無沙汰してます! お元気でしたか? 私も逢いたかったです」
「かー! おまんは嬉しい事を言うてくれるな。わしはいつも息災じゃ」
「……息災?」
「ああ、そうじゃ。この通りピンピンしちょる」
聞き慣れない言葉に小首を傾げる更紗を見つめた龍馬は、端正な顔をくしゃりと破顔させた。女の傍へ一歩寄ると後手にして持っていたものを差し出す。
「相変わらずの別嬪さんへわしから プレゼント ホォ ユゥ ぜよ」
不意打ちで突き出されたのは、鮮やかな真紅の花。更紗は大きな瞳を丸くし、促されるままにそっとその花束へと手を伸ばしていく。
「えっと……私に?」
「そうじゃ、これは千日紅と言う花じゃき」
「……千日紅」
聞いたことのない花だった。紅色というよりはピンク寄りの色味だ。松かさ状に鮮やかな赤紫の花弁が集まっている。コロンとした小さな花を幾つも咲かせていた。
「……可愛いお花」
そっと花束へ顔を近づけた更紗は、ほんのり甘酸っぱい香りを放つ千日紅を見つめながら、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「すごく嬉しいです。ありがとうございます」
そんな更紗の表情を見ていた山南はクツリと小さく笑うと、龍馬の横に並んで穏やかに言葉を紡いだ。
「この花は夏から秋までの長い間、色があせること無く咲くんだよ。千日咲き続けるとも言われているから、千日紅と呼ばれているんだ。確か、花言葉は……変わらぬ愛だったか」
「変わらぬ愛とか素敵ですね」
「女性に花を贈るとは、まるで源氏物語に出てくる光源氏のようですな。才谷殿はなかなかに人の心を掴むのがうまい。花は園芸屋か何かで?」
「いやいや、違うがじゃ。異国では男が女と会う時に花の束を渡しちょる。それを真似ただけじゃ。道すがら咲いていたのを見つけて紐で縛ったき、ちっくと見栄えは悪いがきれえな花に変わりはないぜよ」
あっけらかんと言い放つ龍馬の言葉を聞いた更紗は、両手で覆っていた茎の部分に視線を向けてみる。
麻紐で無造作に巻かれていた茎の切り口はどれもスパッと綺麗に切れてはいるものの、それぞれ長さにはばらつきがあった。
(龍馬さん手作りの花束だなんて、ほんとに嬉しい…)
坂本龍馬の風貌はお世辞にも裕福とは言えない。だからこそ工夫を凝らし、一手間かけて作ってくれたプレゼントは特別で、好感が持てるものだ。
「才谷さん、心のこもったプレゼントありがとうございます。こんなに素敵な花束貰ったのは生まれて初めてです。大切に飾りますね」
喜びが重なり合うように胸の内へ広がっていた更紗は、心の奥底に染み渡るような、ある種、幸せに似た感動を覚えていたのだが。
「……成る程な。だから、此奴に執着する訳か」
背後で口を閉ざしていた男が呟く。更紗は和やかな雰囲気に水を差した張本人を見やった。闇近くの柱に背を預けていた土方は、冷ややかな眼差しで龍馬を見据えていた。
「市村は異人ではなく日本人だ。何を企んでるか知らねぇが興味本位でうちの隊士に近づくのはやめて貰いたい」
張りのある低い声が玄関口に響く。淡々としているようで、情感が滲み出ていた。場の空気が一瞬でピンと張り詰め、鉛のように重苦しいものへと変わっていく。
「異人を真似て女に花を贈るだと? 下らねぇ。土佐の商人には攘夷の志っつうもんはねぇのか。男の風上にも置けたもんじゃねぇな」
静寂が辺りを包む。不穏な空気を放つのは土方だけではなかった。事の次第を見守る他の隊士たちも彼の意見に賛成のようだ。更紗は気まずさに当事者である龍馬の表情も隣の山南の顔も見れなかった。
「……わしは、お更に異人の血が流れちょるから近づいた訳ではないき。いや、…ちっくともないとは言えんかもしれんが、こん娘そのものに惹かれたんじゃ。男の風上におられのうてもええ。お更が喜んでくれたなら十分ぜよ」
売られた喧嘩は買わない。その男は自分に向けられた侮蔑に怒ることもなく、雑念のない顔でまっすぐに土方を見つめた。土方も同じく龍馬を見据え続ける。先に視線を外したのは龍馬だった。
「お龍から聞いちょったが……折角のきれえな髪がざんばら頭にされるとは、まっこと辛かったのう。女は髪が命じゃ言われるけんど、おまんは何も変わっちょらん。そん花のように夏も秋もずっときれえじゃ」
殺伐とした空気を一蹴するにふさわしい声が響く。近づいてきた龍馬から日なたの匂いがした。ふわりと優しい感触が頭を包み込む。その手の温もりに誘われるように、更紗は伏せていた視線を上げた。
「見合い相手の男もおまんに似てしょうえい男やか、きっと気が合うがじゃ。わしと違うて男の風上におる真の男じゃき、安心しとおせ!」
この期に及んで白い歯を見せて笑う龍馬に勝てる人間はそういないだろう。平等に地を照らす太陽のような人に更紗は見えた。彼の度量の広さを前にすれば、小さな悩みや問題は最初からないのかもしれない。ざんばら頭さえ、急に愛しく感じられるのだ。
「才谷さん、本当にありがとうございます。でも、この髪は自分で切りましたから。結構、気に入ってるんですよ?」
「おまん、自分で切ったがや!? ぼっこうな事しちゅうて!」
「そんなに驚くことですか? さっき何も変わらないって言ってくれたじゃないですか」
「こんの、はちきんがぁ……あれは言葉の綾じゃ。しょうまっこと勿体無い事を…」
龍馬は大袈裟に溜息を吐いた。顔に息がかかった更紗は思わず後ずさる。まるで子供のように頭を抱える龍馬は先ほどとは別人だ。けれど、どちらも坂本龍馬の本当の姿。気づけば、更紗の紅色の唇から笑いが溢れていた。
「……勝手にしろ」
吐き捨てられた言葉に更紗は身を固くした。恐る恐る振り向けば、その様子を射抜くように見据えていた土方は、呆れた顔つきで闇の潜む廊下へと踵を翻す。
「土方君、何処に行くんだい? 才谷殿と…」
「俺は忙しいんだよ。あんたの思惑通りに事が運んでんだからあんたが対応してくれ」
淡々とした返答が、溶かし始めていた鉛のような空気を再び硬いものへと変えていく。土方は振り返ることなく闇の中へと消えた。止まっていた時が動き出すように、周囲の隊士たちもそれぞれ歩き出す。取り残された山南は苦笑いを浮かべた。
「……また、私のせいで怒らせたかな」
「山南さんは何も悪くないですよ。行くって決めたのは私だもん」
「いや、市村君を巻き込む訳にはいかないから、後で私から土方君に話をしておくよ」
「いえ、それはいいです。私は悪いことしたなんて、これっぽっちも思ってないですから」
山南に向けて放った声色は思いの外、落ち着いたものであったが、その心中は不安か苛立ちか分からない焦燥に駆り立てられていた。
一度、交差してしまった直線は決して交わることはない。必然に離れていくのだ。
それは、幸か不幸か男と女の間柄でも言えること。
あの日、偶然にも立ち止まって同じ温もりを共有した。けれど、互いに踏み止まる決断をしなかったのは、二人には所詮、男女の縁というものがなかっただけ。
当たり前のように手放された女の行く末を無縁な男に制約される由縁など、何一つ思いつくものではない。
「……才谷さん、行きましょう」
ジワジワと纏わりつく感情は罪悪感に似ていた。更紗はそれを振り切るように闇に背を向けると、ニコリと笑って龍馬の顔を見つめる。
「おまんはお龍と似て、げにまっことはちきんじゃのう。男は大変じゃ」
「……それってどういう意味ですか?」
「なんちゃあない、なんちゃあない。外に駕籠を待たせてあるがやき、へんしも行くんじゃ。鉄蔵もおるがや」
「鉄蔵って……土井さんでしたっけ?」
更紗は徐に首を傾げた。途端、いつぞや龍と共に屯所を訪ねてきた男性を思い出す。ひょろりと痩身の目つきの悪い浪士だ。
(……あの失礼な人また来てるのか。歴史上の人物でいたっけな…?)
結局、あの男が何者かも分からない。けれど、少なくとも目の前にいる坂本龍馬と懇意にしている間柄だ。完全悪という訳ではなさそうである。
「嗚呼、そうじゃ。後、おまんとこの隊士も居るぜよ」
「え、山南さん……私一人で行くって伝えましたよね?」
万一にでも坂本龍馬の身元がバレることがあってはならないと、見合いには一人で参加させて欲しいと話をしたはずである。
慌てて隣に顔を向ければ、山南はじっくりと龍馬を見据えていた。まるで敵の動向を探るような目つきだ。表情こそ穏やかだが、目の奥は笑っていない。
「市村君に介添えは付けないが護衛は必要だ。斎藤君を連れて行きなさい。これは新撰組副長命令です」
柔和な笑みの裏には、阿修羅の顔が隠されている。仏の副長の言動は勝気な女さえも絶対に抗うことができない沙汰であった。
「……分かりました。行ってきます」
覇気なく答えた更紗は、玄関を出た龍馬の後に続いて前川邸の門へと歩んでいく。
天に見える紫陽花色の夕空が優しい色味を刹那毎に手放していく。女は冷気が足下から背筋へと抜けていくのを感じ、静かにその身を震わせていた。
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