飽くなき小娘問答

文久三年 十月二十三日

前川邸 自室



 紅葉深まる秋の壬生村は、あちらこちらで景色の中に赤や黄の鮮やかな彩りを添えていた。紫陽花色の夕空がそれらを優しく包み込んでいる。


 そんな穏やかな美の全てを遮断するかのように締め切られた四畳半の部屋では、一組の男女が身体を寄せて静かに言葉を交わしていた。



「……なぁ、ほんまに行く気なんかいな」


 男は背後から女の華奢な腰回りへ綺麗な指先を這わせていた。スルスルと衣擦れの音をさせたまま、女の耳元へと妖艶な低音を吹き込んでいく。



「あんたが人のもんになるのは……嫌なんやけど?」


「……いや…別に……決まった訳じゃ…」


「東男より西の男の方が……隣に立つには似合うてる思うけどなぁ」


「……あ……ちょっと…待って……やま…」



 男は引き締まったしなやかな腕に力を込めていく。程良く柔らかい布地を慣れた手つきで絡めて交差させると、不意打ちで一気に締め上げた。


「……うぇ……く…苦しいです…」



 更紗の口から喉を絞められたような悲鳴が聞こえるや否や、帯のたれ先を折り返して華やかな形を作る山崎が小さく溜息を落とした。



「言う事聞かへん罰や。我慢できひんのやったら早よ帰ってきたらええ」


「……いじわる」


「いけずで結構。副長もあんたが行く言うてからずっと機嫌悪いんやで? お陰で久々に帰ってきた屯所は何やピリピリしとるし……ほら、座る」


「そんなの言われたって困ります。ご機嫌取りするのもおかしいし…」



 才谷屋より文を貰った日以降、更紗は両副長の真逆の意見を踏まえて見合いに行くべきか否かをじっくり思案した。その上で、大好きな坂本龍馬の面目を潰したくないという思いから、山南の意見に同調して見合いを受けることにした。


 その選択に納得いかない土方がとる態度は想定内ではあったものの、次第にそれが幹部の男たちへも連鎖し、屯所内は不穏な空気が漂ってしまっていた。


「私の人生は……私が決めます。誰が何と言おうとお見合いには行きますよ」



 いつも味方でいてくれる山崎でさえも今回ばかりは見合いに否定的のようだ。けれど、更紗は何故そこまでして皆が反対するのか今ひとつ理解できなかった。


「未来の女は皆あんたみたいに気が強くて自由なんかいな?」



 膝を突き合わせて座っていた山崎が溜息交じりの言葉を放つ。更紗は小皿に入れた赤い粉を水で溶く男の抜かりのない所作を見つめた。



「気が強いのは人それぞれですけど……基本は自由ですよ。自分の生きる道を選べますから」


「成る程なぁ。そりゃ、お嬢さんみたいな聞かん子が出来る訳や。でもやなぁ…」



 薄い唇をスッと閉ざした山崎はこちらを無表情で見据える。彼の桃漆黒色の双眸は美しかった。更紗は途端に胸がドキドキ張り詰めてくるのを感じる。


 狼狽える更紗から目を逸らさないまま皿の赤を小指で掬った山崎は、そのふっくらとした女の唇に乗せると、静かに横へ滑らせていった。



「化粧せんのはええけど、ちゃんと紅くらいは差してき。相手方に失礼やろ」


「……でも、別に…」


「ほら、喋らへんとお口は閉じる。今宵はそんな気張らんでええから。変な男やったら我慢せんと直ぐに帰ってくるんやで」



 少し前までどこか棘のある口調だったのに、一瞬のうちにこちらの身を案じているような優しい素振りを見せてくれる。


 飴と鞭をうまく使い分けるこの男の巧みな話術に小娘が太刀打ちできるわけがなかった。自分の勝気で頑固な性質も、彼の前ではすんなりと鳴りを潜めてしまうのだ。



「……はい。そのときは……すぐに帰ります」


 観念したかのように更紗は大人しく頷いた。懐紙で指についた紅を拭き取った山崎は、クツリと笑みを溢すと手を伸ばして一つに結んだ女の頭を撫で回した。



「素直で宜しい。よしよし良い子や」


「……髪が……崩れちゃう」


「そんなん、俺がまた結うたるわな」



 山崎は幼子を見るような眼差しだった。まるで母親が娘の世話を焼いているかのようだ。でも、そんな態度が心地よかった。そのおかげで、性別を超えて人には言いにくい悩みも彼には相談できるのだ。



「……この前は、ありがとうございました」


「かまへん。内偵があったさかい、終わりまで付いててやれへんかったけど、差支えなかったか?」


「はい、何とか一週間乗り切れました」


「それなら良かったわ」


「あの……このことは誰にも……」


「あんたの望み通り、誰にも言うてない」



 多くを語らずとも、この会話だけで十分だった。更紗は胸を撫でおろす。生理再開直後の生活を支えてくれたのは、内偵調査の経過報告に屯所へ立ち寄った山崎であった。


 思えば、山崎には出会った日に下着を見られ、着替えも手伝って貰い……これ以上ない酷い姿も晒している手前、彼を見た瞬間、わらをも掴む思いで駆け寄る自分がいた。


 どんなに警戒していても、不思議と山崎には気を許してしまう。素の自分が引き出されてしまうのだ。ある意味、新撰組の中で一番手強い人物だろう。一生頭が上がらないと、更紗は思った。



「入るぞ」


 後方の襖が開く。声のトーンからみて男の機嫌は変わらず悪かった。とはいえ、こちらの決定を譲るつもりはない。更紗は覚悟を決めたように表情を硬くする。


 化粧箱を片付ける山崎を冷たく一瞥した土方は、開け放した襖に背を預けて腕を組むと、ゆっくりと立ち上がった更紗を鋭い眼光で睨みつけた。



「あの野郎が来やがったがどうすんだ。今なら断ってやるぞ」


「いえ、結構です。私はお見合いに行きますよ」


「別に義理立てして行く必要はねぇ。新撰組の体裁くれぇ俺がどうとでもしてやる」


「お前の人生なんだから好きにすればいい。土方さん、前に私にそう言ってくれましたよね。だから、行ってきます」



 端正な顔を顰める土方を見やった更紗は作り笑顔を向けた。流石の鬼の副長も意地っ張りな小娘には手が出ないようだ。更紗はここぞとばかりに、歩みを進めていく。



「赤の簪は使わねぇのか。見合いには丁度良い色だろ」


「どうせ断るから派手な飾りはいらないし……後ろで一つに括ってるほうが私らしいから、これでいいです」


「どうせ断るなら何故なにゆえ行く必要がある。そんなにその東男とやらに会いてぇか」


「まぁ、そうですね。そんなところです」



 横を通り過ぎようとすれば、いつぞの日のようにパシリと腕を掴んでくる。更紗は仕方なく土方を見つめると困惑気味に首を傾げた。



「……まだ何か?」


「衿を抜き過ぎだ。帯もこんな派手にしやがって……着付け直してやる」


「これ全部、山崎さんにやって貰ったんですけど」


「……山崎。てめえ、どういうつもりだ」



 土方の怒りの矛先が変わって、殺気の全てが室内へと放たれる。山崎はゆるりと胸の前に両手を掲げると、後退りながら苦笑いを浮かべた。



「いや……最近、更紗が色っぽくなったさかい、少し粋に着付けただけやないですか。その分、帯は素人には解けへんような結び方にしましたから…」


「ほう、ならば相手が手練れなら容易に解けるっつう訳だな」


「……それはそうですけど。このつれない娘が初見の男に肌を許す筈ないでしょう。そないに易く男と寝たりせぇへんもんなぁ、更紗は」



 山崎の飄々とした声が部屋の中を駆け巡る。反して、更紗は部屋の外でむっつり黙り込んだ。至近距離から向けられた切れ長の眼差しが鼓動を急速に打たせていく。


「ほう、お前さんは易く男とまぐわいはしねぇか」



 掴まれた腕から熱が上がってくる。屯所にいる手強い男は一人ではなかった。顔が真っ赤に染まりきる前に走って逃げたい衝動に駆られるが、ここで絶対に負けたくはない。逆境こそ諦めと開き直りが肝心だ。


「……当たり前です。二人とも、ほんと余計なお世話なんで。私のことは放っておいて下さい」



 更紗は妙な腹立たしさに任せてドスの利いた声を出していた。腕に触れていた土方の骨張った指を払いのける。自分の弱みを握る男たちへ冷ややかな視線を送ると、玄関へと続く廊下を歩み始めた。

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