輪違屋の明里天神
「私は間違った事を言っているかい?」
「いえ、山南さんは間違った事は言ってないですよ。ただ、土方さんと考え方が違うだけで……俺にはどちらが正しいかは分かりませんが…」
「私はね、相手を無下にする行為は新撰組の体面に差し支えると考えるんだよ。近藤局長の品位を下げる行動は控えたいだけなんだが……それが分かって貰えなかったかな」
山南は盃に手を伸ばした。当惑したような冴えない表情を浮かべるものの、落ち込んではなさそうだ。沖田と更紗を交互に見やった山南は、盃を持ち上げニコリと微笑んだ。
「さぁ、乾杯しようか」
その声に釣られるように、慌てて沖田と更紗も膳にある盃を手に取り、軽く天へと掲げた。
ここは島原遊郭。角屋の二階、
六畳ほどの部屋の襖には、野菊や水仙、女郎花や桔梗に蒲公英など四季折々の草花が描かれている。季節は関係なかった。至るところで咲き乱れている様子はまさに遊郭の縮図。美を競い合っているようだ。
「輪違屋の明里どす。本日は宜しゅうお頼もうします」
後方に控えていた明里は丁寧に頭を垂れると、銚子を手に三人の元へとしなやかに歩みを進めていく。
しゃらんと綺麗な音色を奏でるのは彼女の挿す簪だ。襖絵の世界から出てきた天女のような優美さに更紗はただ見惚れていた。
「お隣失礼いたします」
「…あ、はい」
明里の声かけに更紗の鼓動は早まる。格の高い遊女との対面は男でなくても緊張するものだ。頬が染まるのを感じ慌てて視線を外してみるが、横に腰を下ろした明里は更紗を見つめたまま。ふわりと微笑むと、笹紅色の唇を動かして言葉を紡いだ。
「ご無沙汰してます。ご息災でおらはりましたか? 市村はんのお顔が見とうなって山南はんにお願いしたんどす。御足労頂いてすんまへんなぁ」
「いえ、とんでもないです! あの……大した挨拶もしないまま帰ってしまってすみませんでした……その節はありがとうございました」
明里は穏やかに微笑んでいた。更紗は申し訳なさげに深々とお辞儀をした。
言葉にしなくとも、心配してくれていたのは伝わってくる。もっと早く自分から明里の元へ足を運ぶべきだったのかもしれない。
けれど、あの日の事情を聞かれたら。事の真相を探られた場合にどう答えていいのか分からず、気がつけば行動を起こせないまま時が経っていた。
「市村はん、お顔上げて下さい。此方こそありがとう御座いました。お元気そうにしてはって良かったどす。今日はゆっくり楽しんでいって下さいね」
明里から漂う伽羅の上品な香りが更紗を包んでいく。白魚のような指先が自身の荒れた指に優しく重ねられる。
自分よりも一回り小さなその手は、もう逢うことが叶わない大好きだった友人を思い出すには充分で、懐かしさと共に愛しさを与えてくれた。
(……何も聞かないでいてくれるんだね)
過去の惨状は彼女の耳にも届いているはず。けれど、詮索することはしてこない。前回となんら変わらぬ態度で私たちに接してくれる。
それが花街に身を置く女の常識なのだろう。客人の事情に立ち入ることは極力控え、内情を小耳に挟んでも口にせぬようにと、遊里における暗黙のルールが人の逢瀬を支えていた。
(……明里さん、ほんとにありがとう)
強張った気持ちが徐々に解かれていく。そのせいか更紗は今まで気づかなかった腹部の痛みを感じた。袴の上からそっと、お腹の辺りを押さえてみる。
(……何か悪いもの食べたかな。腰も痛いし……やっぱり調子悪い…)
芹沢の葬儀を境に心身の不調からは回復していた。楠が目の前で絶命した時も不安定にはならず、普段通りの生活を送れた。なのに、ここにきて体調不良とは拍子抜けである。
「市村はん、お酒はあんまり好きやあらへんどすか?」
盃に口をつけようとしない更紗を見つめていた明里は、手に持つ銚子を引きながらニコリと伺うように微笑んでいる。更紗はへにゃりと笑うと軽く首を傾げた。
「ごめんなさい……嫌いではないんですけど。今日は本調子じゃないみたいで…」
「あら、ほんまどすか? それは難儀やなぁ……無理して来てくれはったんなら、申し訳ないどす」
「あ、すみません! 無理はしてないです……でも、ちょっと厠に行ってきます」
差し込むような下腹部の痛みは耐えようがない。ひとまずトイレに行こうと更紗は席を立つ。刹那、傍にいた明里が急に更紗の袴の裾を掴んだ。
「……市村はん、ちょっと待ちよし。足下まできてはるわ…」
「……え、足下……?」
抑えた声に促されるように目線を自分の足元へ移してみると、内足首を伝うものが白足袋の筒を赤く染めていた。
(……うそ……どうしよう…!)
身体がカッと燃えるように熱くなる。ずっと止まっていたものがこのタイミングで再開するとは自分の不運を呪いたくなる。
立ち上がったまま動かない自分を山南と沖田は不思議そうに見つめた。けれど、取り繕う余裕はなかった。更紗は焦りと不安と恥ずかしさから頭の中が真っ白になっていた。
「……大丈夫やさかい。うちについて来はって」
袴を両手で掴み俯く更紗の手を引いた明里は男たちに笑顔を送り、襖へと歩みを進めていく。
「山南はん、うちから市村はんに見せたいものがあるので、少し席を外してもええどすか?」
「嗚呼、構わないよ。ゆっくり行っておいで」
「ほんまおおきに。ほんなら、御言葉に甘えて失礼します」
明里は更紗を廊下へと追いやる。その場に腰を下ろして丁寧にお辞儀をするや否や、襖の戸を閉め切った。
「ほな、行きましょう」
「……ほんとすみません…」
「謝らへんでええんどす。お馬なんやったら、お家にいてはったら良かったのに。無理させてしもうたね」
「あの……お馬って……これのことですか?」
「市村はん……ひょっとして、初花でいはる?」
「……はつはなって、何でしょう? 」
こちらの返答を聞いた明里は目を丸くした。世間知らずであることがバレてしまったが、もうそれで良かった。この場において無知であることを隠すメリットはない。
(……恥を忍んで明里さんに全部聞かなきゃ。じゃなきゃ屯所で生きていけない…)
男所帯に紅一点で暮らす試練は限界を超えている。女特有の悩みを相談できる梅はもういない。頼れる人は目の前にいる生身の女性だけだ。無礼を承知で縋らなければ、屯所で生活しなければならない己に明日はない。
「うちで良かったら教えてあげるさかい、安心しよし」
「……明里さん、本当にありがとうございます。もう、全部教えて下さい…」
「そんな悲しい顔しはらへんと……お姉はんや思うて何でも聞いておくれやす」
更紗は明里の気遣いの微笑みを見て泣きそうになった。もし、島原へ行く選択をしなければ、今頃どんなことになっていたのか。想像するだけで身震いが起こる。感謝のお辞儀を深々として、血の気の引いた顔を上げた。
「こうやって……半紙を畳んで二つ繋げて……これで出来上がりどす。後はさっき教えたように紐で腰に結ぶだけ。ほら、簡単や」
明里と共に奥の小部屋で向き合うこと四半刻。
差し出された細長い厚めの和紙を凝視していた更紗は、力なく溜息を落とすと悲愴感いっぱいに呟いた。
「これ以外に……何かいい方法はありませんか…?」
「これ以外に、て……さっき別で渡した和紙は柔らかく揉んで詰めはった?」
「……詰めました……詰めましたけど……違和感しかないし……この二つじゃ動いているうちに……絶対漏れるじゃないですか…」
万事休すとはこの状況を指す言葉なのだろう。生理用品というものが存在する元の世界はいかに恵まれていたのか。現実は殊更甘くはなかった。幕末で生理用品が売っている訳もなく、身の回りにある物を使って代用品を作る他ない。
そんな自分に与えられたのは、紙と紐。ただの紙と紐である。そんなもので一体、何ができるというのか。眩暈で倒れそうだ。
「……うわぁぁ………本気でやだ……」
行き場のない思いを抑えられない更紗は唸っていた。日常から一気に奈落の底へ引きずられるような絶望を感じ、身を裂くような思いに打ちひしがれる。
畳に両の手をついて項垂れる女を見つめていた明里は息を吐くと、手に持っていた和紙を置いて落ち着いた声で話し出した。
「そやから、出来る限り動かへんの。本来、お馬はご不浄や言わはって人前に顔を出さへんようにお家に籠らへんといけへんのどす」
「……そんなの無理ですよ……屯所は人だらけだし……やらなきゃいけないことは毎日あるし…」
「うちら遊女も二日しか仕事は休まれへんから……暫くは海綿入れてるよ。和紙に比べたらよう吸うてくれるから」
「……海綿て……まさかあの海の生き物の……スポンジみたいなやつ?」
「すぽんじ、て……聞いた事あらしまへんけど、何どすか?」
人差し指を口元に添えた明里は思案げに緩々と小首を傾げてみせる。
そんな艶っぽい所作をまともな思考で見ていられないくらいには、更紗の感情は収拾がつかないほどの混乱をきたしていた。
「ムリムリ……絶対無理……未知の世界すぎます…」
首をプルプルと横に振る更紗は両の手で覇気のない顔を包み込む。暫く様子を伺っていた明里は、ピクリとも動かなくなった女へ遠慮がちに言葉をかける。
「市村はん……生娘ていう訳でもないんやろ?」
「それは……そうですけど…」
「ほんなら大丈夫や。男の人のもんに比べたら、そんな気にならへんし…」
「いや、明里さん……ちょっと待って……それとこれとは全然話が違いますから……本気で待って…」
島原天神から教えられるには余りにも衝撃的で極端な物の例えだった。更紗は自分の意思とは関係なく全身の力がぐにゃりと抜け落ちていく。
「……市村はん? 大丈夫?」
人生、なるようにしかならない。無駄な抵抗をするより事実を受け入れるほうが生きるのは楽になるはずだ。
(もう……何でもいいや。言われた通りにしよう……それから考えよう)
先人の知恵は確かだ。今の自分はそれに縋ることしかできないのなら、否定せずに素直に取り入れる。その後にじっくり改良すればいい。世に絶望して諦める必要はないのだ。
「困らせるつもりは無かったんやけど……ほんま堪忍え。うちみたいな遊女は何や気が可笑しいんかもしれへんなぁ…」
「……いや、違うんです。明里さんは何もおかしくないんです……気が変なのは私のほうで。でも、ちょっと思うところがあって……立ち直りました」
這うように起き上がった更紗は弱々しい笑みを浮かべた。明里は再び目を丸くすると口元に手を添えクツクツと笑い出した。
「市村はんは面白いお嬢はんどすなぁ。山南はんの言う通りで、お話ししてて飽きひんわぁ」
「……山南さんの言う通りって?」
「そうどす。山南はんはよく市村はんのお話をしてくれはるんどす」
「そうなんですか」
「もしかしたら、山南はんの想い人て市村はんなんかと思うて……こうして二人でお話ししたかったんどす」
「え、山南さんの想い人が……私、」
上品に微笑む明里を見つめていた更紗は、紡がれた言葉の意味を理解するや否や、素っ頓狂な声を室内に響かせた。
「えぇ!? そんなことある訳ないじゃないですか! というか、山南さんと明里さんて、よく二人きりで会ってるんですよね?」
「まぁ……そうどすなぁ」
「なら、何でそんなことを……私が言っていいか分からないですけど、山南さんの好きな人は明里さんですよ」
本人には悪いが山南の恋心は彼の歴史を語るうえで避けて通れない史実だ。それは彼の口からも直接聞いているし、明里と馴染みになったことも教えてもらっている。
「……それはないどす、市村はん」
困ったように小さく笑った明里は首を横に振るが、更紗は眉を寄せると腑に落ちない様子で言葉を返した。
「なぜそう思うんですか? 山南さんは明里さん一筋ですよ?」
「へぇ、そんな事あらしまへん」
「理由を言ってくれないと分かりません。秘密にするんで言って下さい」
不満そうな更紗にじりじり詰め寄られた明里は負けじと困惑顔を浮かべていたが、相手が引くつもりがないことを悟ると視線を伏せた。広げていた半紙を整えていく。
「……あの御人、会うてはくれはりますけど、うちに触れてくれはりまへんのや」
「え、あの……一度も、ですか? 馴染みですよね?」
更紗が幕末で学んだ馴染みという感覚は、ただ単に男が同じ妓を指名して酒の相手をさせるだけではない。その延長線上に男女の関係があるのだと勝手に思っていた。
「馴染みは馴染みなんどすけど……一度もありまへん。うちから手を握りしめても困ったように苦笑いしはるの。同情されてるんどす」
「……同情……ですか」
返す言葉が思い浮かばない。同情だと感じる理由を聞く気持ちにはならなかった。更紗の胸は波立ち、閉じ込めたはずの感情が微かに心の奥底で渦を巻いていく。
「出逢うたんは平野神社に桜を見に行った時で……宵の闇の中で浪人に襲われたんどす。必死に声上げて助けを呼んだら、来てくれはったんが山南はんどす」
動揺を悟られぬようにと懸命に平静を装った更紗は声の主を真正面から見つめ直した。明里は哀しげに微笑んでいた。
「こないな生業の女でも無理やり犯されるのは怖いさかい。泣きじゃくるうちの傍に付いててくれはって、輪違屋まで送ってくれはって……それから通ってくれはるようになったんどす」
明里から紡がれる言葉は胸を一気に熱くさせた。思い出したくなかった記憶が脳裏に浮かんですぐさま消える。更紗は桃色の唇を強く結んだ。
彼女の経験した見知らぬ男から与えられた底知れぬ恐怖も、その後に山南から与えられた絶対的な安心感も、嫌というほどに理解できるものであった。
それと同時に感じとれたのは山南の見返りを求めない愛だ。山南がどれだけ明里を大切に想っているかは、彼女に対する行動そのものに表れている。
「……恩返しがしたいんどす。うちにはこの身しか捧げるもんがないから……それを断られたらどないしようにもあらしまへん」
寂しそうに笑ってみせる明里を再び見つめた更紗は、数秒の間を置いてから神妙な面持ちで口を開いた。
「明里さん。たぶんそれ、同情じゃなくて愛情です」
「……愛情…?」
「そう、愛情。大事に思ってるからこそ手が出せないんだと思います。他の男の人のようにお金を払ってそういう関係になりたいんじゃなくて……明里さんの気持ちを大切にしたいんじゃないでしょうか。まぁ、山南さんが奥手なのもあるかもしれないけど……」
きっと誰よりも優しい彼のことだから。どこまでも不器用な山南の行動を知った更紗は、自分が二人のキューピッドになるために今、この場で一肌脱ごうと決めた。
「……簡単に誘いに乗ってくる男の人よりよっぽど誠実じゃないですか。私が知ってる限りでは女の影はないし、山南さんの目には明里さんのことしか見えていないので安心して下さい」
明里は華やかな着物の合わせに手を添え、頬を僅かに赤らめていた。更紗は胸の片隅に静かに宿る負の感情を封じ込めるように、精一杯の笑みを貼りつけた。
「山南さんは鈍感だから、明里さんの気持ちに気づいてないんですよ。なので、もう少し大胆にというか……分かりやすく言葉にしないと伝わらないかも」
「……でも、うちは遊女どす。これからも客は取らへんといけへんし……山南はんとは身分も違うさかい、困らせることになります」
「身分て、そんな価値のあるものでしょうか」
「……市村はん?」
「武士に遊女に百姓……同じ人間ですよね。私から見れば何の違いもないです。同じ時代に生まれて出会うことができたんだから……好きに愛し合えばいいと思う」
この時代の人間は、皆一様に与えられた自分の身分に縛られて生きている。
しかしながら、時空を超えて幕末に来た更紗には、どれだけ強く求めてもそれは決して手に入らないものだ。その土俵にすら上がることはできそうもない。
幸せが手に届く位置にあるのなら、掴み取ればいい。山南と明里には何としてでも幸福であって欲しかった。悲恋の結末は変えられなくても、幸せな時間を増やすことは罪ではないはずだ。
「……女は度胸が肝心ですよ、明里さん。絶対にうまくいくから山南さんに素直な気持ちを伝えてみて下さい。身体より心の繋がりのほうが大切ですから」
「何や、そう言われると心強いね。市村はんの度胸を分けて貰うて、今宵山南はんとお話ししてみます。ほんま、おおきに」
「とんでもないです」
「ほな、そろそろお部屋へ戻りましょうか」
少女のような表情から一転、島原遊女の顔つきに戻った明里はゆっくりと立ち上がる。更紗は膨らんでいたある感情を隠すように、頭を横に振って明里を見上げた。
「いえ、今日はこのまま帰ります。やっぱり調子悪いので……二人に先に帰ることを伝えてもらえたら…」
「ほんなら、玄関まで送りますさかい…」
「それも大丈夫です。少し一人になりたくて……」
いつものように気持ちのコントロールがうまくできない。きっとこの体調のせいだろう。いい言い訳も思いつかずに押し黙れば、湿気を含んだ匂いが鼻先を擽る。
「……雨、降り出してしもうたね」
ポツリと落とされた言葉に伏せていた視線を持ち上げると、明里は遊女の佇まいで外を眺めていた。格子窓の隙間からでは目に映らない位の雨が、音もなく静かに降り注いでいた。
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