才谷屋からの文

「いつもは寄り付きもしねぇお前が此処にいるっつうのは、俺に何か用があるんじゃねぇのか」


「……ああ、そうだった」



 土方からの味気ない言葉で更紗は何をしに来たのかを思い出した。畳に置いていた文を手に取り、紫煙を燻らせる男の前に差し出す。


「届いた文を渡しに来ました」



 無言で受け取った土方は三通の文の宛名に目をやる。文字が解読できなかった力強い字体の文だけ机の上に置くと、残りの二通は木箱の中へと無造作に放り投げた。


(……花君太夫からの手紙は読まないんだ…)



 あっさりとした男の対応は更紗の心の内を穏やかにさせる。目の前で堂々と恋文を読まれるのは、やはり楽しいものではない。雑に扱うということは、大した関係ではない証拠だ。


 けれども……大した関係ではないのは今の自分と同じ。懇意にしている遊女さえその程度の存在なのだと思うと、それはそれで面白くなかった。



「……何ですか? この手は」


 自身の前に伸ばされた剣だこのある手の平を私情たっぷりに睨みつける。土方は煙管を吹かしながら冷めた顔つきで更紗を見やった。



「その文も俺のだろう。貸せ」


「え、これは違いますよ。私のです」


「てめえに文が届く訳ねぇだろうが」



 吐き捨てられた言葉にムッとした。この時代にだって自分のことを思ってくれる人はいるのだ。誰かさんと違って、彼とだったら良好な関係を築ける自信もある。更紗は持っていた手紙の宛名を見せるように突き出すと、綴られた文字を指差しなぞっていく。



「ほら、ここに市村更紗殿って書いてありますよ」


「差出人は」


「才谷屋です」


「……あのクソ野郎。勝手に送りつけやがって…」



 土方は少しの間を置いて、苦り切った顔つきで舌打ちを落とした。どうやら坂本龍馬のことを思い出したらしい。二人の出会いがどんな形で決着したかは覚えていないが、眉間の皺が深くなっていく土方の様子から何となく想像はできた。



「貸せ。俺が読んでやる」


「いいですよ。自分で読めますから」


「字が読めねぇだろ。何が書いてあるか教えてやる」


「……才谷さんの字は読みやすいので大丈夫です」



 送り主が坂本龍馬である以上、文の内容は予測不可能だ。何が書かれているか分からない手紙を安易に人に見せる訳にはいかない。


 ましてや、新撰組と坂本龍馬の思想は、佐幕攘夷派と倒幕開国派の決して交わることのない平行線。これからの日本の歴史を知る立場として、未来を変えてしまうような現実を作ることはあってはならない。


(私のせいで坂本龍馬だってバレちゃったら……本気で取り返しがつかないもんね)



 鋭い眼光に捉えられている。更紗は視線を逸らせないままに眉を寄せて土方を見つめ続ける。ゆっくりと後退りながら手紙を持つ両の手を背中へと回した。



「これは私宛の文ですから、誰にも…」


「総司」



 ポツリと土方が言葉を放った直後、後ろ手に持っていたはずの紙の感触が指先から抜き取られるように無くなっていき。



「……あ! 沖田さんズルい!!」


「更紗、御免ね。副長命令は絶対なんだ…。それにあの才谷さんて人、信用できなくて…」

 


 右手にある文をひらりとさせた沖田は更紗へ向けて曖昧な顔つきで微笑むと、差し出された土方の手の平へそれを乗せた。


「ああ、もう信じらんない! 返して…!!」



 更紗の焦りは尋常ではなかった。二人の近くへ駆け寄るも、沖田のガードは鉄壁である。


 あたふたする女の姿を一瞥した土方は燻らせていた煙管を机に置いた。素知らぬ顔で封を切ると、文を開いて視線を走らせ、徐に端正な顔を顰めた。


「……何だよ、こりゃ」



 その微妙な反応を見た沖田も興味深そうに土方の横から文を覗くが、同じく眉を潜めて首を傾げていく。



「絵ですね。何の絵だろう…」


「……下手くそ過ぎんだろうが」



 土方は呆れた様子で溜息を吐いた。その背後に回った更紗は、背中に片手をつくとめいっぱい身を乗り出して、男たちが眺めている文へと指先を伸ばす。



「……ほんと……返して…」


「危ねぇぞ」



 躊躇なく伸びてきた逞しい左腕が爪先立ちで不安定な女の脚へ後ろ手に絡められる。その瞬間、隙ありと言わんばかりに文を取り上げた更紗は、目に映る手紙の内容に顔を歪めた。


「……絵、だけって……どういうこと?」



 文の最初に申し訳程度に文字が綴られてはいるものの、スペースいっぱいに墨を使って何かイラストのようなものが描かれていた。


 途切れ途切れのたくさんの波線の中にぽかりと浮かぶのは、謎の小さな逆三角形のマークだ。


 その下には緩やかな半円のような、よく分からないものが描かれていた。文の上部には大きな丸が朱墨で塗りつぶされている。



(子どもの絵日記みたい……太陽描いて、波描いて……半円は陸地かな……って、ことは…もしかして…)



 その場に腰を下ろした更紗は、身体の中からワクワクするような感情が沸き立つ。無意識にその唇から笑みが溢れていた。


「……これ、海だ。今、船の上にいるんだ…」



 以前に龍馬から貰った手紙には、勝海舟と思われる軍学者の門人となり、兵庫の海側に大きな施設を作っている旨が書かれていた。それが完成した暁には船で日本各地を巡るのだろう。意気揚々とはしゃぐ姿が思い浮かぶ。


 嬉しそうに絵を見つめる更紗に対して土方は不愉快そうに、沖田は不思議そうにしていた。再び煙管を手に取った男は紫煙を燻らせる。



「お前、あの胡散臭ぇ野郎に東男を紹介して貰うっつってたよな」


「……そうでしたっけ? 覚えてませんけど」


「見合い話取り付けられてんじゃねぇよ。馬鹿が」



 棘のある声が静かな室内に響く。更紗は文の絵を眺めたまま他人事のように言葉を返した。



「何ですか、 見合いって。誰のですか?」


「てめえのだろうが。あのクソ野郎……タダじゃおかねぇ」



 紫煙を吐き出す土方は不機嫌極まりなかった。それは文の内容が難ありであることを表している。


「……沖田さん、これ……何て書いてあるんですか?」



 一転、不安の色を覗かせる更紗を見つめた沖田は、ふぅと小さく息を吐いた。これは近い将来、いらぬ嵐が来るのだろう。苦笑いのまま綴られている文字へ指を伸ばした。



「このたび、見合ひの儀を執り行ひ候。つきまして美しく着飾りたし 十月二十三日 申ノ刻 市村更紗殿 才谷梅太郎」


「それだけ?」


「うん、これだけ」


「…………」



 音と照らし合わせて文字を解読した更紗は思いもよらない展開に肩を落とした。


(……龍馬さん……お見合いなんて聞いてないよ…)



 確かに宴の席で十八で恋人がいないことを弄られた記憶はある。その流れで男性の話をした気もするが、まさか結婚相手を探してくるとは予想だにしなかった。


 可哀想な女に見られてしまったのだろうか。これはきっと坂本龍馬なりの善意なのだろう。いや、善意というよりは完全にお節介だ。


(……この強引さが、坂本龍馬なのかな。全てを大事にしちゃう感じ……)



 身分差別が激しい土佐で、郷士という下級武士の身分株を持つ商家に生まれ落ちたのが坂本龍馬であった。


 脱藩者である彼が犬猿の仲であった薩摩と長州の同盟を結ばせ、土佐藩をも動かして大政奉還を実現させるに至ったのは、たとえ周りからハッタリをかますホラ吹きだと言われようとも、目的を果たすために一心で働きかけた行動力があったからだ。


 そんな彼の生き方に魅力を感じていた更紗は、どこか憎めない性格を持つ坂本龍馬の行いを怒る気にはなれなかった。


「……しょうがないな。もう……」



 溜息を吐いた更紗は口元を緩めると文を折り線に合わせて丁寧に畳んでいく。無表情で見届けた土方は、女の手からスッと折り畳まれたそれを取り上げた。



「……あ、」


「これは俺が預かっておく」


「……え、」


「しょうがねぇから、見合い断りの文を書いてやる。差込で飛脚に託しゃ数日で着くだろ」



 煙管を吹かしながら冷ややかに文を見下ろす土方の横で、沖田は封書を手に取り表裏をくまなく見つめ、困惑顔を浮かべた。



「うーん……でも土方さん。この文には住処が書かれてないから、出しようがないですよ」


「……あの野郎。益々、胡散臭ぇな。才谷梅太郎……土佐の商人と言ってたか。素性を調べてみるか…」



 苦々しく呟く土方の様子に更紗はどきんどきんと動悸が打ち始める。


(……どうしよう。調べたらバレるじゃんか……)



 才谷梅太郎という名が偽名であることは明らかだ。しかも、あの坂本龍馬である。本当に才谷屋という商屋があるのかも疑わしい。


 今、この時も倒幕のために全国各地を飛び回っているとしたら……監察方の情報探索はあなどれない。勘のいい山崎ならすぐに彼の正体を見破ってしまうだろう。


(……もし今、勝海舟と一緒なら佐幕派として見てもらえるのかな……てか、龍馬さんて最初から倒幕派だっけ? もっとちゃんと歴史を勉強すればよかった…)



 幕末好きの幼馴染みの影響で、歴史上の節目となる出来事はそれなりに知っているつもりになってはいたが、実は思想など細かい分野については把握していなかった。


 あの日、新町遊郭で龍の妹を助けたことからできてしまった奇妙な縁。新撰組と坂本龍馬の出会いを自分が早めてしまったなら、どちらに対しても申し訳ない気持ちが湧いてくる。


(どうしたらいいんだろう。なるようにしかならないのは分かってるけどさ……)



 何もできないもどかしさに更紗の表情は見る見るうちに曇っていく。それを一瞥した土方は、煙管の灰を煙草盆に落としながら静かに言葉を放った。



「見合いくれぇ俺が断ってやるから気鬱になんな。野郎の事は放っておきゃいい」


「そうだよ、更紗。屯所に来ることがあれば、鬼の副長が追っ払ってくれるから」



 沖田は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。場の空気が悪くなると少しふざけて新しい風を吹き込んでくれるのが彼の持つ優しさだ。表情が和らいだ更紗の視界の端で襖がゆっくりと開けられる。



「失礼、市村君はいるかな?」


「あ、山南さん、すみません!」



 遠慮がちに覗いた山南は三人を見ると柔和な笑みを浮かべた。更紗は本来の目的をすっかり忘れていたことに気づき、慌てて土方へ向き直った。



「今から山南さんと出掛けてきて良いですか?」


「別に構わねぇが、何処に行くんだ」


「島原です」



 煙管を引き出しへ仕舞おうとしていた土方は女の返答に手を止める。俄かに眉間に皺を寄せると、部屋へ入ってくる男を見据えた。



「山南さんよ、何故なにゆえ此奴を島原へ連れてく必要がある?」


「いや、明里が市村君と話してみたいと言っていてね。市村君も明里に会ってもいいそうだから良い機会だと思ったんだが……不味かったかな?」



 土方は返答しなかったが、それが彼の答えであった。山南は苦笑いで頭を掻いた。


(私がすぐに話しをしなかったからだよね。ごめん、山南さん……)



 沈黙が流れる。タイミング悪く山南に怒りの矛先が向いてしまった。更紗はバツの悪そうな顔を浮かべるが、隣の沖田が突然、何かを思い出したように手を打ち、変に真剣な面持ちで口を開いた。



「それが、更紗に文が届いたんですけどね。勝手に見合い話が決まってまして」


「市村君に見合い話というのは……才谷屋さんの取り計らいでかい?」


「そうです、そうです。住処も書かれてなくて返し文もできないから、土方さんが縁談当日に追っ払うそうですよ」


「成程……いや、あくまで私の意見だけれども、曲がりなりにも会津藩御預かりの身である以上、無闇に客人を追い返すのは無礼に当たるのではないかな」



 顎を摩りながら思案する山南を見やった土方は、切れ長の双眸を細めると、棘のある低い声を室内に響かせる。



「あんたはあの男に会ってねぇからそんな事が言えんだよ。何処の馬の骨とも分からねぇ野郎に気を使う必要なんざねぇ」


「確かに如何ほどの身分の方かも私は存ぜぬが……断るにしても筋を通さないと、新撰組の沽券に関わるのではないかい?」


「ただのしがねぇ商人だとよ。まともな男を紹介できる器じゃねぇだろう。時間の無駄だ」


「人は初見では判断できない部分がある。縁談は先方あっての事なんだよ。市村君の事を思って計らってくれたのなら……」



 いつぞやの副長同士の小競り合いもこんな感じで始まったのだろうか。空気は殺伐としていた。更紗と沖田はそっと視線を合わせると、無言のまま下を向いた。


 縁側から覗く遠くの曇天は先程よりも灰色が濃く積み重なっている。京には鉛を張ったような暗雲が立ち込めてきていた。


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