豊玉発句集
文久三年 十月 上旬
前川邸 表長屋
曇天の昼下がり、空から温もりのない光が地上へと射している。
日陰に入るとひんやりとした空気が漂う季節柄、この日は単衣の着物では肌寒いほど建物内が冷え冷えしていた。
しかしながら、表長屋だけは別だ。熱心に稽古に打ち込む男達の気合いや掛け声により異様な熱気に包まれていた。
「……ごめんなさい。調子が出ないや……何でだろ…」
恰幅の良い松原と組み合っていた更紗は困った顔を見せた。いつもと比べて自分の動きが頗る悪い。その上、少し気持ち悪くなってしまったようだ。指先を相手の道着から離してその場に座り込んだ。
「更紗殿、無理はなさらないで下さい。誰にだって優れない日はあります。今日は此処までにしましょうか」
「……はい、すみません。ありがとうございました」
柔術師範の松原を中心として、定期的に柔術の基礎を主とした稽古が開かれていた。更紗もできる限りその稽古には参加していたのだが。
(……風邪でもひいたのかな。力が入らない)
長州藩の間者の粛清から一週間以上が経っていた。屯所内で漂っていた殺伐とした雰囲気もだいぶ和らぎ、気づけばいつもと変わらぬ日常が戻ってきている。
代わりに張り詰めていた心の糸が緩んだのだろうか。更紗は珍しく本調子でない体調の変化に面食らっていた。心身を休めるためにも縁側で呆けるのが一番の薬だ。
目を閉じて深呼吸をする。空気は冷たく美味しかった。周囲の静けさも相成って、具合の悪さも薄らいでいく。
「市村君、いいかな?」
掛けられた声に誘われるように瞼を持ち上げる。視線を横に向けると、柔和な笑みを浮かべた山南が佇んでいた。
「君に文が届いてね。差出人は……才谷屋、とだけ書いてある」
「才谷さん…!」
聞き覚えのある名前に更紗は嬉々たる声を上げた。山南から差し出された手紙を受け取るや否や、宛名の個性的な字をジッと凝視する。
「……ほんとだ……嬉しい…」
坂本龍馬から贈られた手紙はこれが2通目だった。彼との出会いは春の終わり、角屋で一緒にお酒を飲んだ日から既に半年近くが経過していた。もうすっかり自分のことなど忘れられているものだと思っていたのだが。
(龍馬さん……ちゃんと私のこと、覚えててくれてたんだ)
彼の心の隅に置いておいて貰えたのは嬉しかった。文を大事そうに抱え込む更紗の姿を見た山南はクツリと小さく笑みを零すと、柔らかな声色で言葉を紡いだ。
「実は今から明里と会う予定にしているんだが、市村君も共にどうだい?」
「明里さんとですか?」
「ああ、そうだよ。市村君と一度ゆっくり話してみたいと明里が言っていてね」
芹沢が粛清された夜の宴会以来、更紗は島原遊郭へ足を運んでいなかった。着物を貸してもらい、あまつさえ具合の悪かった自分の世話までしてくれたのに、未だお礼の一つも言えていないのは、無礼にも程がある。
不調があっても日常生活は普通にこなせる程度だ。ならば、少しくらい外出しても問題はないはず。更紗は山南を見つめると、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「……私も明里さんに伝えたいことがあるので、ぜひ一緒に行きたいです」
「勿論だよ。あ、しかし連れ出すなら土方君に許可を取らないといけないね……私から伝えた方がいいかな?」
「あ、いえ。大丈夫です! 今、サッと行ってきます」
「それなら、ついでにこの文を渡してくれないかい?」
目の前に改めて差し出された三通の文を受け取った更紗は小さく頷く。龍馬の手紙と合わせてまとめ、縁側から立ち上がった。
「分かりました。渡してきます」
外出許可を貰うのに手ぶらでは心もとなかったので、丁度いい土産物だった。あとはどうやって話をうまく持っていけるか。兎にも角にも副長のご機嫌を取ることが肝心だ。
手元にある土方歳三宛の文に目をやれば、力強い字体で綴られた差出人の名が目に入る。
(……佐……五郎……?…うーん……真ん中の二文字が読めないなぁ…)
度々、新撰組の屯所に飛脚が訪れて文を届けてくれた。しかし、どの手紙も決まって達筆なのか雑なのか分からない草書で書かれており、更紗には簡単に読解できるものではなかった。
(どれどれ……他の字は読めるかな……)
何の気なしに残りの二通の文の差出人に目をやれば、明らかに先程の文とは異なる柔らかい書体で宛名が描かれていた。差出人が女性であることは間違いないだろう。
「若……鶴…かなぁ? こっちは……花……君…」
ポツリと呟いた言葉の響きを理解した瞬間。更紗はそれ以上、文字を追うのをやめた。忘れていた記憶が段々と蘇り、否応なしにどきんどきんと動悸が打ち始める。
(……花君って……あの時の花君太夫…だよね)
かつて、恋心を自覚してから初めて、土方が島原遊郭へ向かうのを屯所から見送った日。夕闇の雨に打たれる中、泣きながら覚えた遊女の名が花君太夫であった。
(……もう私には関係ないし。早く渡して明里さんに会いに行こう)
細かい霧のような、正体不明のモヤモヤが胸の中で広がっていくのを蹴散らすように、更紗は大きく息を吸い込んで一気に吐き出した。
廊下を曲がり、土方の部屋の前に到着する。気持ちを切り替え、手早く用事を済まそうと障子戸の前で正座をしようとするが。
「……あれ、珍しい。開いてるじゃん」
いつもは開かずの扉のように固く閉ざされている戸がどういう訳か拳一つ分、不用心に開いている。
そっと覗き込んでみた視線の先には、色素の薄い茶色の髪を高い位置に結わえた若者がいた。よくよく見ると文机の前に座り込んで俯き、微かな嗚咽を洩らしながら肩を震わせている。
刹那、こちらの気配を感じたのか何かを隠しながら若者は振り返った。仕方なく更紗は障子戸を開けるが、その青年は戸の先を見据え、強張っていた頬を綻ばせた。
「更紗か。驚かせないでよ」
「沖田さん……こんなところで何してるんですか? 土方さんは?」
「……何してるか知りたい?」
ニヤリと含みを持たせて微笑んだ沖田の表情は子供顔負けだ。可愛い悪戯顔を見せられれば、更紗の中にある好奇心がドキリと疼くのは必然。
「……知りたい、かも」
「なら、早く襖閉めて……こっちおいで」
大きな瞳を細めて手招きする美少年の指示通り、更紗は後ろ手に戸を閉めた。手元の何かを意味深に見つめる沖田の元へと歩みを進めていく。
近くに腰を下ろした更紗を見やった沖田は、再び邪気のない笑顔を浮かべる。小首を傾げる女の目の前に手の内に隠していたものをスッと差し出した。
「……何ですか、これ?」
更紗は途端に眉を寄せた。目に映るのは使用感のある和紙で作られた冊子だ。その表紙には見慣れた男の文字が綴られていた。
「……豊玉……発……土方……義…」
全てを解読する前に声を出すのを止めた更紗は、一瞬で妙な心地に苛まれる。開けてはいけないパンドラの箱を見てしまったようだ。ドキドキと逸る気持ちを抑えながら表紙をジッと見入る。文字を追うのはやめられなかった。
「……義豊って、書いてあるんですね」
以前、土方の死後の名前が義豊だと本人直々に教えて貰ったことがある。その名が書かれた冊子のある部屋は副長の自室だ。これが一体、誰の所有物なのかは明らかだった。
「これ……土方さんの発句集じゃないですか。見ていいんですか?」
「勿論、駄目だよ。見つかったら命は無いかもな」
「……え、」
言葉とは裏腹の明るい声が鼓膜をくすぐった。更紗は引きつった顔を浮かべるが、それを見ていた沖田はプッと小さく吹き出すと冊子をペラペラ捲り始めた。
「危険を犯してでもたまに見たくなるんだよなぁ。あの人、句の中では素直だから気になっちゃって……ほら、これは更紗も知ってるだろ」
沖田が指を差した文字を見つめるが、やはり達筆ですらすらと解読することはできない。
最初に書かれている文字は分からないが、最後の文字は何となく梅っぽかった。その文字をトントンとなぜた更紗は一人、思案を巡らした。
「これって……一輪咲いても梅は梅とかいう、よく分からないやつですか?」
「そうそう、よく分かんないやつ。これも面白いよ」
「……読めない。何て書いてあるんですか?」
「春の草 五色までは覚えけり」
「春の草って、七草粥のことですよね? うーん……土方さん記憶力良いほうだし、七草全て覚えられそうだけど…」
洞察力に優れ、隊士達の動きを常に把握している男が詠むには余りにも可愛らしい、一種の呟きのような句であった。その上で、なぜ土方歳三が植物の句を好んで詠んでいるのか。解けない謎は深まるばかりである。
眉を寄せて考えあぐねている更紗を見た沖田は、耐え切れない様子でカラカラと笑い出した。
「駄目だって、更紗。正確に言うと七草粥ではないんだけれど、あの土方さんが考えた句だから。真面目に考えるような代物じゃないよ」
あの土方というのがどの土方を指しているか全く分からなかったが、何となく言いたいことは伝わってきた気がした。万能に見える彼に天の神様は俳句を詠む才能は授けなかったらしい。
「……そっか。確かにセンスはないですよね」
「せんすというのは……扇ぐもの?」
「あ、そっちの扇子じゃなくて。まぁ……平たく言うと、趣きがないってことです」
「はっきり言うなぁ〜。その通りではあるけれども」
楽しそうに冊子を
「他にもとっておきのやつ、ありますか?」
「そうだなぁ……この中で好きなのは、水の北 山の南や春の月」
「……水の北、山の南や……何でしたっけ?」
「水の北、山の南や、春の月。これってさ、恐らく……山南さんのことを詠んでるんだと思うんだよね」
沖田は手を伸ばし、剣だこのある人差し指で綴られた文字をなぞった。更紗は何と答えていいか分からず、言葉に詰まる。
「この前、間者の件で言い合いになっていたけど……本当は仲が良いんだよ、あの二人」
目の前で楠が殺められたあの日、緊急で集会が設けられたが、粛清に参加せずに自己判断で裏方に回った山南と、その行動に納得がいかなかった土方が小競り合いを披露する場となってしまった。
やり取りを見ていた更紗はどちらが正しいか判断できなかったが、土方の怒声に怯むことなく自分の意見を押し通す山南の頑固さに一抹の不安を感じていた。
「土方さんはああ見えて不器用だから、好きな人の前では素直になれないんだよ」
「……土方さんが不器用?」
「そうだよ、愛情表現が下手な不器用人。近藤先生も山南さんも大好きで守りたくて、自分から皆に嫌われる鬼の副長を演じ……いてっ…!!」
沖田が突如、声を上げて頭を両手で抱え込む。恐る恐る横目で見ると、顔を歪める沖田の背後に着流しを纏った色男が影のように佇んでいる。
「てめえら、俺のいねぇ間に盗み見るとはいい度胸じゃねぇか」
殺気の滲んだ低い声が室内に響く。もう命はないに等しいのかもしれない。
「……ひぃ……」
豊玉発句集を開いているのは、紛れもなく自分の手。言い訳さえも浮かばない絶望的な状況だ。更紗は全身の血を抜かれていくような感覚に襲われ、恐怖で後ろを振り向くことができなかった。
「どうやら、命が惜しくねぇみてぇだな」
頭上から人の手が伸びてくる。更紗はこれ以上ないくらいに身を縮めた。両手に持っていた発句集が取り上げられ、着崩した男の着物の懐へと押し込められる。
両手を広げたままピクリとも動かない更紗に対して、沖田はひらりと身を返して間合いを取ると、土方へ屈託のない笑みを送った。
「果たし状なら受けて立ちますよ。何なら真剣でひと勝負しますか」
「てめえと殺り合う気なんざねぇよ。非番を無くしてやる」
「いやだなぁ、土方さん。余りに素敵な句ばかり詠むから、紹介してただけですよ。ね、更紗」
「……え、あ、…はい」
「戯けが。俺の句は真面目に考えるような代物じゃねぇっつってたのは何処の誰だよ。こういうのをお前の時代では、扇子がねぇっつうんだろ、ん?」
文机の前に腰を下ろした土方は引き出しを開けて冊子を仕舞うと、不機嫌そうに切れ長の双眸をこちらへ這わせる。
(……全部、聞いてるんじゃんか……)
いつも以上の気まずさに更紗の目は泳いでいた。悪口のつもりはなかったが、完全なる悪口になってしまっている。どうにかこの場を切り抜けないと、本題は切り出せない。
「……いや…でも、ほら……創作するって素敵なことだと思いませんか? 私もたまに絵を描いたりするし…」
土方は表情を崩さないまま、煙管の雁首を煙草盆の炭火に近づけて火を点ける。微かに吐息を洩らしながらゆっくりと煙を吐き出した。
「後で覚えとけよ。女でも容赦はしねぇ、身一つでたっぷりと仕置きしてやる」
今度は一体、何をしてくるというのか。前科があるこの男の発言には、無駄に感情を揺さぶられてしまう。ドキドキしている場合ではなかった。自分を守るためにも、これ以上の油断は禁物だ。
「土方さんが言うと卑猥だなぁ。更紗、今宵寝る時に脇差手放しちゃ駄目だよ」
「……沖田さん。念のためですけど、今日は一緒の部屋で寝ましょう」
「え、それは……別に構わないけど……」
土方を露骨に警戒する更紗の態度をよそに、沖田は途端に頬を赤く染め、頭を掻いて照れる仕草を覗かせた。
そんな二人の反応を冷めた顔つきで見ていた土方は再び煙管の煙を吐き出すと、書きかけの書状に視線を落とした。
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