思惑と誤算

 淡く滲むような長い日差しが二人の影を地面にぼんやりと映している。


 慣れない着物で舗装されていない道を歩くのは大変であった。せめて袴であれば男のスピードに付いていけるのだが。


(行きは駕籠を呼んでくれたのに、何で歩いて帰るかな。壬生と上七軒なんてめっちゃ遠いじゃんか)


 少し前は二条城を周回した。初めて見る城下町の光景に心躍ったが、特に何か買うわけでもない。よく考えれば意味の分からない寄り道をしただけだ。


(……あ、歩くスピードがまた早くなった)


 前を歩く土方に距離を離されないよう駆けてみるも、不意にぷつりという小さな音が聞こえ、弾みで右の足先がぐらついていく。


「……きゃっ……」



 更紗は前へつんのめって転けそうになるが、反射的に地面に足裏を押しつけて惨事をしのいだ。振り返った土方が踵を返し、近づいてくる。



「何やってんだ」


「……すみません、何かにつまづいた?」



 背後に転がっている下駄へ視線をやれば、小花柄の入った赤の鼻緒が根元からもげている。


「鼻緒が切れたか」


 ポツリと呟いた土方は更紗の背後に転がる下駄を拾い上げ、片足で不安定に立つ更紗の傍にしゃがみ込んだ。



「直してやる」


「……直すってどうやって?」


「まぁ、見てろ」



 袂から緋色の手拭いを取り出した土方は片手で乱雑に広げると、その端を口に含んでビビッと音を立てて裂いていく。


「あ、ちょっと…いいですって! わざわざ破かなくても…」



 男の行動に驚き、思わずその肩に軽く触れる。細く裂いた布を口から離した土方は、破れた手拭いを袂に戻す代わりに銭貨を一枚取り出した。


「お金……どうするんですか?」



 視界に映る土方は器用に銭貨の穴に細い布を通した。慣れた手つきで下駄の底の穴にもそれを通して銭貨を引っ掛け、切れた鼻緒と布を結んでいく。


 鼻緒を何度か引っ張り外れない事を確認すると、片側を宙に浮かせていた足元へ下駄を差し出した。


「ほら、履いてみろ」


 更紗は朱色の鼻緒に化けた右の下駄にそっと足を入れた。肌に触れた布地が柔らかい。男の肩から手を離して、軽く両足を前後左右に動かしてみる。


「わぁ、ありがとうございます。すごい……直りましたね」



 先程と何ら変わらぬ履き心地であるのは流石。下駄の具合は良くなったと安堵するも、他の具合が悪くなったようで女の顔が一瞬曇る。


 右足首に力を入れると痛みが走る。おまけに捻ってしまった所がジンジンと熱を持ち出したようだ。


 更紗は痛みを悟られないように笑顔を浮かべた。ゆっくりと立ち上がった土方は袴についた土を払う。いつもなら嫌みの一つも言ってくるはずなのに、黙り込んでいるから気味が悪い。



「あの、ここから一人で帰れますから、土方さんは上七軒に戻ってください」


「上七軒に戻って何をしろと?」


「それは……君菊さんがお座敷に来て欲しがってたし…」


「それが商売だからな」



 きっぱりと答える土方の言葉は本心なのか。自分のせいで花街で遊べなかったと思われるのは癪だ。とはいえ、女性と遊んでほしいわけではない。


 言葉にできない感情が顔に出てしまいそうで、更紗は慌てて男に背を向けた。


 壬生村まであともう少し。もう少し頑張れば、皆がいる屯所に着く。この曖昧な気持ちからも一気に解放されるはずだ。


 そんな更紗の様子を見ていた土方は小さく息を吐くと、手を伸ばして後ろ髪から簪を抜き取った。


「あっ、ちょっと……何ですか」



 ふわりと栗色の髪が落ちていく。それを手で押さえた更紗が困り顔を浮かべても、土方は知らん顔だ。手に持つ銀色の簪を日にかざし見つめている。



「俺が忠告してやった尻から男衆に絆されちまうなんざ……花街ではやってけねぇぞ」


「別に絆されてないです。ちょっとだけ……親近感が湧いただけで」


「ほう、どんな親近感が湧くんだ」


「それは……あ、愛次郎さんに似てるなって思って……名前も愛が付いてるし」


「似てねぇよ。佐々木とは違う」

 


 苦しい言い訳だった。まさか愛之助と梅の関係を通して、現代で自分を探してくれているはずの幼馴染のことを思い出していたとは言えなかった。



「……雰囲気が何となく似てるだけです。顔はどっちかと言えば、楠さんに似てますよね。色が白くて目がパッチリしてて……ほっぺたが柔らかそうな感じ?」



 話を逸らすために会話を続けるが、やっつけである。冷ややかな眼差しを向けられているのだろう。恐る恐る土方を見やると、形容のできない妙な表情を浮かべていた。


「土方さん?」


 違和感を感じた更紗は伺うようにその顔を見つめる。土方は指先で遊んでいた簪を懐へ仕舞うと、自分の横に並んで涼やかな眼差しを向けた。



「足捻ってんだろ。肩貸してやる」


「え、大丈夫です。そんな痛くないですし」


「別に知らねぇ仲でもねぇんだ。遠慮すんな」



 意味ありげな囁きが鼓膜を揺らす。腰元に腕の感触を感じた更紗は、即座にその手を払いのけ、痛みの走る右足を庇いながら後ずさった。


「いや、いいです! 知ってる仲でもないですし、一人で歩けますから」



 不意打ちの触れ合いは反則。その腕に抱かれるのはもう御免だ。思い出さないわけがない。胸がどきどき張り詰めてくるのを抑えられず、変な高揚感が全身をひた走る。


 頬が赤くなるのを懸命に耐える更紗を見ていた土方は懐手をすると、切れ長の双眸を細めて言葉を続けた。



「ほぅ、俺を意識してんのか」


「……してません」


「なら、何の問題もねぇだろ」


「……あります」


「じゃあ、どうやって帰んだ」


「……歩いて」



 煮え切らない更紗の態度に土方は眉根を寄せた。二人の間に秋の風が吹き抜ける。堂々と距離を詰めた男は、強引にその腕を引き寄せた。



「面倒くせぇ。帰るぞ」


「……ちょ、……やだ!」



 抵抗空しく、捕らえられた身体はピクリとも動かない。おまけに土方は半ば強引に身体ごと持ち上げようとしてくる。慌てる更紗を横目に口元を綻ばせる姿は少し楽しそうでもあった。



「また肥えたか」


「それ女性に対して最低発言ですよ! 誰かに見られたらどうするんですか!」


「別に見られてもどうもしねぇよ。足捻って動けねぇから連れて帰っただけだ」


「動けるし! ほんと嫌だ!! 離して…!」



 高鳴る心臓の音が自分でもはっきりと聞こえる。これがそのままダイレクトに相手に伝わっているとは。顔から火が出るとはこの事だと更紗は恥じた。今すぐにでも消えてなくなりたいくらいだ。



「なら、始めっから肩を借りてりゃいいんだよ」


 宙に浮いていた朱色の下駄がゆっくりと地面に着地する。更紗を掴んでいた手を緩めた土方は、射抜くように睨みつけた。



「次は遠慮なく抱き上げちまうぞ。嫌なら従うこったな」


「……新選組の鬼」


「何とでも言え」



 更紗は納得のいかない表情を露わにした。けれども、足を引きずりながら帰るのは現実的ではないし、屯所まで抱き上げられるのも避けたい。


 仕方なく土方の肩に右の手を乗せると、ひょこりひょこりと弾みを付けながら壬生村に続く土道を歩き出した。



 陽が沈むにつれて吹き抜けていく風も冷たいものへと変わっており、山脈の尾根が鮮やかな茜色に染まっていく。


 二人の間に会話はなかった。沈黙が怖くなくなったのはいつからだろうか。


 前を見据え続ける碧色の瞳には、青々とした壬生菜畑が夕陽によって燃え上がるような赤一色に映っている。


 ようやく見慣れた前川邸が近づいてくる。門前に隊士がいるように見えたので、更紗は慌てて土方の肩に触れていた手を外した。一人の若者がこちらをチラリと見やる。


「……あ、楠さんだ」



 刹那、彼の背後でキラリと何かが反射した。間もなく楠は顔を歪め、身体を震わせながら一目散に畦道から壬生菜畑へと駆け出していく。


 すぐさまその後を、長身のよく知っている男が追いかける。手には抜き身を持っていた。その異様な情景を前に、更紗は足が止まる。



「……原田さん?」


「……未だ終わってねぇのか……畜生が」



 舌打ちと共に怒気の含んだ呟きが耳元を掠める。横を見る時間はなかった。ぐっと後頭部を掴まれ、土方の首元へ無理やり顔を押し付けられる。


「お前は見るな」



 身動きが取れない程の力強い感触に苛まれながら、鼻腔を擽る男の素肌の匂いと微かな紫煙の香りを避けるように更紗は必死で顔を動かす。


「……ちょっ…と……やめ……!」



 辛うじてその首筋から顔を背け着物へと逃れた女の代償は、逞しい肩越しに見える戦慄の光景で。



「おやめ下さい…! 誤解です!! 私は間者などでは決して…!」


「この野郎……てめえの仲間が俺のぱっつぁんを殺そうとしたんだろうが!! 覚悟しやがれ!!」



 背から鮮やかな赤の液体をてらてらと流しながら楠は金切り声で叫んでいた。対して原田は血の付いた大刀を振りかざす。獲物を威嚇する獣のような雄叫びを上げた次の瞬間。


「……うわわわぁっ…!!!!」



 容赦なく斬り付けられた楠の地を裂くような絶叫が壬生菜畑に響き渡り、その身体は青々とした葉の中に崩れ落ちていく。


 燃え上がるような赤一面の世界に突っ伏した若者の周りをより鮮やかでとろみのある朱の液体がゆっくりと浸していき。


「……っ…………」



 ピクリとも動かなくなった楠の傍で原田は血振りをして刀を鞘に納める。一部始終を見ていた更紗はまるで操り人形の糸が切れたかのように、ヘタリとその場へ座り込んだ。


(……何…で……)



 身体の中から大事な何かが落下していくのを感じる。


 ほんの数十秒前まで生きていた愛らしい顔立ちの若者が、壬生菜畑にできた血溜まりの中で目を見開き息絶えている。


 理解が追いつかなかった。原田左之助が新撰組の新人隊士である楠小十郎を殺してしまった。その上、わらわらと出てきた馴染みの隊士達は誰一人この光景を見ても動じない。



「……歳、帰ってきたか!」


 掛けられた大声に舌打ちを落とした土方は、足下にいる更紗を一瞥すると大股で駆けてくる男へ冷たく鋭い眼光を向けた。



「近藤さんよ、話しが違うじゃねぇか」


「……いやぁ、歳。それがだな…」


「これじゃ連れ出した意味がねぇだろ」


「……すまん」



 苛立ちを滲ませて話す土方を近藤は罰が悪そうに見つめる。ふぅ、と力なく息を吐くと、その場にしゃがみ込んで、ふわりと揺れる栗毛へ手を伸ばした。


「……更紗、酷いものを見せてしまって誠にすまなかった」



 頭に宿った温もりに虚しさを覚えた更紗は、ぼんやりと霞んでくる視界を隠すように俯いて唇を固く結んだ。


(……謝るなら……私じゃなくて……楠さんにだよ…)



 どんな経緯があるにせよ、人が人を殺めていい理由など何もないと心に強く思うも、所詮、それは何不自由なく暮らしていた現代人の綺麗事でしかない。


 その平和な世界は激動の時代を生きた過去の人々の苦しみや哀しみの上に成り立っている。


 国に忠義を尽くすために命を賭して生きている目の前の彼らを軽蔑する事はできなかった。ただ、収拾のつかない負の感情に意識が呑まれないよう耐えるだけだ。



「いやぁ、手こずっちまったが。これで一件落着よ!」


 頭上に落ちてきた快活な声のほうへ顔を向けると端正な顔を崩してへらへらと笑う原田が目に映る。その背後から永倉が歩いてきていた。更紗はすぐに視線を地面へ戻した。



「あのくれぇ一太刀で決めろ、左之。実戦で殺られるぞ」


「ぱっつぁん〜! だってよぉ〜俺ァ槍…」


「図体でけぇ癖に踏み込みが甘ぇんだよ。俺が後でみっちり教えてやる」



 原田の横を情味なく素通りした永倉は、近藤と更紗が傍にいる土方の前まで歩みを進めると、誰よりも真面目な面持ちで口を開いた。



「御倉伊勢武は一が、荒木田左馬之允は俺が始末したぜ」


「残りの奴はどうした」


「いや、八木邸にいたから分かんねぇわ。急ぎ、一を前川邸に向かわせたが戻ってこねぇな……総司と源さんと平助が討ちには行ったんだけどよ…」



 語尾を濁しながら永倉はチラリと前川邸に目を向けるが、誰一人出てくる様子はない。


 代わりに島原遊郭へと続く畦道の方から冴えない顔をした沖田と藤堂が小走りで駆けて来る。原田が大声を張り上げた。



「おーい!! 総司に平助! 丁度お前らの話ししてたんだよ! 間者はどうした? 源さんは?」


「……それが……逃げられちゃって…」



 何とも情けない表情で藤堂が言葉を返した。沖田は空気を察したのか黙っている。永倉だけが即座に怪訝な顔つきで口を開いた。



「何言ってんだ。お前ら三人と……山南さんも居たんじゃねぇのか? 天然理心流の手に掛かれば越後と松井なんざちょろいもんだろ」


「……討ち入る直前に障子破って逃げたんだ……松永さんも間者だったようで……必死で追いかけたんだけど島原辺りで見失っちゃって…」


「それで一番年寄りの源さん置いてお前ら若僧だけ帰ってきたのかよ……情けねぇ」



 しょぼくれた沖田を見た永倉が大きな溜息を落とす。やりとりを静観していた土方が眉間に深い皺を寄せ、殺気を帯びた眼差しで沖田と藤堂を見据えた。



「てめえら……ふざけんじゃねぇぞ。総司、山南さんは何処にいんだ」


「……山南さんは、屯所で……他の隊士に事情を説明していると思います」


「ここに来て何やってんだ。他にやる事があんだろうが」



 沖田の言葉に苛立ちを露わにした土方が舌打ちを落とせば、近藤は苦笑を浮かべ、それを宥めるかのように肩を軽く叩いた。



「まぁまぁ、歳。山南さんなりに何か考えがあっての事だろう。隊士総動員で探し出すか?」


「いや、いい。長州藩邸に駆け込まれたら手は出せねぇ。それに……島原に逃げたんなら、近くに長州を囲ってる場があるやもしれねぇ。面は割れてんだ、泳がして監察に場所を特定させる」


 壬生菜畑に転がる死体を見やった土方は、再び足下にいる更紗へ視線を向けると落ち着いた声色で言葉を落とす。


「立てるか」



 更紗は差し出された土方の手を一瞥する。微かに震えていた自身の指先に力を込めると、その手を取ることなくゆっくりと立ち上がった。


「……大丈夫です。立てます」



 先程まで自分が抱えていた思いなど実に下らないものだ。新撰組副長として責務を果たす土方含め、その命を受けて職務を全うする幹部達との次元の違いを見せつけられるばかりである。


(……足手まといにはなりたくない。迷惑は掛けたくない)



 浮かぶ涙を散らすように息を零した更紗は、新撰組の重荷になりたくない一心で膨れ上がる苦しい胸の内を押し殺す。


 太陽が山際へ沈もうとしている。畦道に転がる楠の下駄へ最後の光を注いでいるその天では、金色の星が一粒綺麗に煌めき始めていた。



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